第3話 一揆と戦う松平元康

 永禄9年(1566年)新将軍義昭の政権の立ち上がりは非常に苦しいものであった。将軍職について早々、恩賞として官位をばらまいたり、あちらこちらの寺社や座の特権を再確認するなどで当座の資金を確保したものの、安定した財源もなく、指示や命令も山城一国にも届くか届かないかと言ったところなのである。


 幕府を支える諸大名も三人衆と大絶賛内戦中の三好・松永、代替わりしたばかりで年若い一色(美濃斎藤)には指導力は期待できず、六角は当初のやる気はどこにやら背後に抱えた浅井長政との抗争のため早々に帰国してしまった。


「であるからして今川様の早期の御上洛がどうしても必要なのです!」


 小山のような肩を怒らせながら細川兵部大輔藤孝が談じ込んでくる。聞くところによると夜な夜な野牛をひねり殺して歩くほどの豪の者らしいのだが、いったい野牛が何をしたのかむやみな殺生はよろしくない、などと元康は考えている。


「松平殿、お聞きですか?」

「いや、もちろん聞いております。その件はご家老衆に必ず……」


 上洛には駿河から今川の家老衆である三浦やら朝比奈やらが出張ってきていたのだが、恩賞として官職を貰うとさっさと清洲に戻ってしまい、残されたのは命令を受けて出陣した三河尾張の国衆ばかりといった有様。到底何かを判断できるような大物は残っていないのだ。


 (それがしを含めてな)


 元康はすこし寂しそうに我が身を振り返る。結局、京には上ったものの、恩賞もなく官位も自称蔵人佐のままである。今度こそどこかの国守の官位を……と思ったのが情けない。


「何を他人ごとのように仰せか!松平殿は今川殿の御姻戚、在京今川軍の総大将ではござらんか。しかも上洛なさるや否や、洛中の野盗どもを一瞬で追い払い、三人衆をはじめ幕府に反抗する奴輩を震え上がらせたあの手腕!」


 三河兵があまりにもお土産がなくて困っていたので、ちょうど仕事にあぶれてうろついていた足軽団を襲って上前をはねただけだが……あまり大きな戦闘がなかった上洛軍の中ではいつの間にか大手柄ということになっていたらしい。


「その松平殿のお言葉ならば必ずや駿河に通じまする!逆賊を討伐するは松平殿のご判断一つ!さぁ!」


 さぁと言われてもこの元康の言うことを聞くような駿河本国ではないわ!……と思いつつも元康は善処だけを約束して細川を追い返すのであった。

 

   ◆ ◆ ◆


 細川殿の願いむなしく、永禄10年(1567年)に入り元康は急遽駿府に呼び戻された。松平だけでなく、水野、荒子前田、岩崎丹羽や吉良、鈴木など尾張三河の国衆も全員である。


 なお、この直後に三好三人衆が京に来襲、大混乱に陥るのだがもう元康の知ったことではない。

 

 今川三河守義元死去。48歳。上洛作戦を成功させながらも長らく清洲から動いていなかった理由が初めて明らかになった。後を継いだ今川氏真は改めて傘下の国衆に人質と誓紙を差し出させ、領国支配を固めようとした。


「誓紙だけならばともかく、なぜ年貢が増えるのですか!」

「まぁ、もともと代官しておる土地であるし、戦がなければ出費も減る……」


 松平家臣の酒井、石川、大久保といった面々が口々に不満を述べる。どうも改めて今川への臣従を確認するためと言って、国衆の領地で検地が行われているらしい。しかも今までの言い値で受けていた自己申告の差出ではなく、実際に今川の侍がきて田畑を見るという。


「そのうちすべての土地を今川のものとする腹ではござらんのか」

 松平家臣は不満は口にするものの、どこか熱は入っていない。すでに岡崎の領地よりも多い収入を尾張で得ているため、生活は元康の人質時代に比べれば格段と良くなっているのだ。


「何か問題が起きねば良いのだが……」


 元康はつぶやいたのだが、当然起きる。今川の検地役人が本願寺の寺である三河本證寺の境内に入り守護不入を掲げる本願寺と衝突したのである。


   ◆ ◆ ◆


「三河本證寺に守護不入を認めましたのはこの元康の父広忠にござれば、なにとぞ大目に……」

「ならぬ! 何を言っておるか!! 守護不入の特権は他国はいざ知らず、この今川の法度の及ぶ土地にては一切許さぬ! 仮名目録を忘れたか元康!!」


 これは大事になる……と直感した元康は駿府に飛び、氏真に配慮をお願いしたが、けんもほろろに叱り飛ばされてしまった。氏真にしてみれば家中の実権を手に入れてよりの初めての大事業であり、それにケチをつけられたように感じたのである。


「それならば、むしろ今川仮名目録を読んで聞かせ、我が法度に従うように説得するのが元康の仕事ではないのか!」

「上から下まで御屋形様の仰せの通りにございますが多少のお目こぼしをいただければ…」

「ならぬ! 我が法度に従わぬならば寺を焼くと伝えよ!」


 なんとか譲歩を引き出そうとする元康はさらに叱り飛ばされてしまった。傷心のままに駿府城下の松平屋敷に向かう。


 屋敷には妻の築山殿と嫡男の竹千代が居るのだ、遠征続きで久々に我が妻子と会い、家族での時間を過ごした後、元康は「戦だな」と呟いた。


   ◆ ◆ ◆


 三河、尾張一向一揆は三河本證寺と伊勢長島願証寺が主導し、尾三の検地に不満な国衆を巻き込んだ大規模な反乱となった。さらに美濃、信濃の国境沿いの国衆などは密かに武田、一色と結ぶ始末。


 初動で不穏だった国衆の人質を今川の家臣が先走って処刑してしまったこともあり、大いにこじれにこじれた。


「なぜわしらはこのような沼の中で遊んでおるのか」

 三河兵が文句を言う。


 松平軍は三河での戦闘を許されず、一色に寝返った川並衆や、織田の残党、そして長島一向一揆と戦うために輪中地域に踏み込んでいた。敵兵よりも沼と泥と水との闘いが主眼であり、延々と小さな輪中を取ったり取られたりの戦を繰り返している。


「こりゃあ、城を建てるしかござらんで殿様」

「む、なんじゃ帳簿つけ、戦に口を出すのか」


 声を出したのは台所奉行の木下藤吉郎である。戦の人材は足りているのだが、三河衆に買い物やら帳簿つけができる人員が足りないため、尾張で大量に採用した人材の一人である。最初は中間身分だったはずが、いつのまにか頭角を現し今は奉行として清洲城の購買を一手に担っている。勿論三河武士からは「尾張のハゲネズミが戦もせぬくせにあれこれ口うるさい」として蛇蝎のごとく嫌われている。


「今は輪中一つ一つが伏せたお椀のごとく、相手のサイコロの目が全く見えんでござる。我らの砦をびっしりとおいて、相手の砦をこちらの砦で囲めば、我らの目となり槍先となって敵の寺も早々に音を上げるでござろう」

「ふむ……、できるものはおるか?」

「拙者の知り合いで滝川彦右衛門って浪人がござるが、長島地域に詳しいでござるよ」


 作戦を聞くだけでとんでもない時間と費用がかかりそうである、しかし大事な三河兵を沼の中に沈めつづけるよりは浪人を使って城づくりでもさせたほうが……。


「よし」

 元康は決心した。


   ◆ ◆ ◆


 

 その年、今川が三河と尾張で一揆衆に手を焼いているころ、一つ大きな動きがあった。武田信玄が嫡男の義信を廃嫡。義信は切腹を命じられ、今川の姫は実家へと返され、今川との婚姻同盟が切れてしまったのだ。氏真は激怒して武田に抗議するも退けられ、甲斐遠征を叫び家臣に止められる始末。


 また、同時に武田は幕命によりやむを得ず長尾改め上杉謙信と和睦。北信濃の国境画定を行った。こちらは北条に非難されるも幕命であると押し通したのである。


 三国同盟の一角である武田の動きにより、三国同盟に大きなひびが入りつつあった。

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