Mobilis in Mobili⑵



 院長室を出てすぐの所にあるエレベーターを使って、地上へ昇る。


 精神病院の設備を利用して作ったので、乗車可能人数はせいぜい一人か二人といった狭さだが、移動に支障はない。看護師たちは階段を使用し、貨物用昇降機も新しく設置してあるので、実質これは僕専用のエレベーターとも言えた。


「……全くこんな時に」


 独り言を呟きながら、階数表示を眺める。二ヶ月に一度の定期連絡にはまだ早いし、一体何の用で電話してきたのだろう。スウェーデンの山奥という辺境にある都合上とはわかっているが、普段はめったに本部むこうから連絡なんてよこさないのに。


 エレベーターが地上に到着すると、早足で廊下を歩く。


 ほとんどの職員が地下に引き上げたので、上はとても静かだった。自分の足音だけがこつこつと響き渡り、雪を反射した白い光が、窓から病棟を照らしている。暖房も切ってしまっているので、肺に入ってくる空気がたまらなく冷たい。取り組むべき仕事もあるし、さっさと下に戻りたいところだ。

 電話があるのは診察室の奥の隠し部屋なので、鍵を開けて、中に入る。

 これだけ雪深いと、強度な回線を引ける場所も限られてくる。とはいえ、患者の見える場所に通信手段を置いておくわけにもいかないので、こうして隠してあるのだった。


「えーと……?」


 まずパソコンにパスワードを入力しなければならないが、その前にゴム製の手袋を嵌める必要があった。しかしこの部屋には滅多に入ることはないので、どこに手袋の箱を置いたか、毎回忘れてしまう。

 さて、パソコンラックの中だったか。それとも、部屋の入り口にある資料棚の上だったか。あるいは診療室の方に寄せたのか。


「次こそメモしとこうと思って、いつも忘れるんだよな……」


 寒さに体を震わせながら、安っぽい手袋の捜索を開始する。こればかりは自分の自業自得なので、誰に苛立ちを向けることもできないが、如何せんこの手と薄着では、物探しにも一苦労だ。

 あちこち探し回っているうちに、誤って肘を当ててしまい、何かが床に落ちる。振り返って見るとそれは、テーブルの上に置きっぱなしになっていた、例のチェスセットだった。箱の蓋が開いて、中身が散らばってしまっている。


「ああ、もう……」


 急いでいる時に限って。


 白いため息をつきながら、身を屈める。あの子リアに対するカウンセリング道具の一つといえばそれまでだが、一応、大事なものではあった。アースガルドの担当になると決まった時、あの人が郵便で贈ってくれた、ジャック・オブ・ロンドンのチェスセット——マホガニー製の重厚な造りの箱に入った、特徴的な形の32個の駒。

 電波もろくに入らない雪国での、せめてもの娯楽になるようにという、あの人なりの気遣いだろう。


「……うーん」


 何か、違和感がある、ような。

 駒を拾い箱に入れながら、まじまじと見る。何度か、いや、何度もこれで看護師たちとチェスをしてきた。でも、何か。何か、いつもと違うような。寒さのせいで、感覚が過敏になりすぎているだけかもしれないが。


 結局何が変なのかはわからないまま、箱をあるべき場所にしまう。


 そんなことより、早いところ手袋を見つけよう。寒さに震えながら、そう思った。

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9.ノーチラスの完全な診察 名取 @sweepblack3

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