7.徹夜は記憶力落とすんですよ?
丁寧に説明を受けたものの、今日の所の私の作業はスクリーントーンを切って貼ってくり抜くをひたすらすることだった。
そう雨林さんからの指示だ。
あと、たまに消しゴムかけが甘い所があるから、追加で消し消し。
フランスくんたち、頑張ってくれ。
黒は印刷に残ってしまうじゃないか。けしけし。
それから同じ服の人の柄をひたすら切って貼って切って貼って――。
「五時ですよー?」
耳元でそんな声が聞こえて来て、私はハッとしてそちらを向く。
目の前一杯に咲くんの麗しい顔が広がり、ガタッと椅子から転げ落ちそうになった。近い!!
ガチヤンキー・いおりさんぶっ倒れ事件の時に次いで二度目である。
「わ、気を付けて」
ふわり素早く私の腰を支えてくれる咲くん王子……。
きゅん。
といっても今落ちそうになった原因も咲くんなんだけれども。
「ご、ごめんなさい」
「驚かせちゃったかな」
すごく集中していたから、もう夕方なんて、そんなに時間が経っていたのかとびっくりしてしまった。
というか、咲くんの気配に気付かなかった……。
音もなく消えて音もなく再登場するね、咲くん。
琥珀ちゃんの心臓はドクドクしちゃって、これはドッキリドンドン吊り橋効果にかかっちゃいそうですよ!!
吊り橋効果で舞い上がった女は猛獣のくまさんですよっ!!
危ないですよ!!
咲くん逃げて!!
琥珀はまだくまさんになりたくありません!!!
そこへ、咲くんの登場に気付いたらしい雨林さんが顔を上げる。
「なんで五時のお知らせしてんの?咲」
不思議そうに眉ひそめて黒縁メガネの奥から咲くんに視線を送る、背景の雨林さん。
……あれ?
今咲くんがお知らせしてくれたからには、私のことはみんなに伝わってるものなのかと……思っていたのだけれど……??
あれれぇ?雲行きが怪しいぞぉ?
「夕飯の時間にしては早くね?」
「ごめーん、彼女9時-5時だから」
「……は」
にこっ
とても煌めかしい笑みを向けているけれど。
──それってつまり私の9時-5時は伝えられていなかったというわけなのでしょうか!!??
ていうか作業お昼過ぎからしてたから始まり9時じゃないんだけどね!?
ごめんなさい最上の癒し(未夜くん)と共にあなたの買ったモモテツで盛り上がってました!!!!
「…………チッ」
今この人舌打ちしました???
けれどどうやら、反論はなさそうなご様子で……咲くんの意見が強すぎるのだろうか。
本当に、この人は謎の塊である。
口調は優しいのになぜ不良たちが従ってくれるんだろう。
仕組みを説明された時も結局、ちんぷんかんぷんだったのだ。むぅ。
ただわかるのは、みんなが咲くん教の信者だってことくらいだ。
ぜひ私も信者になって咲くんに甘やかされたい。
(※宗教勧誘されてもついて行っちゃいけません)
「まぁ、遅く帰らせてこき使ってんのが身内にバレるよりはいいか」
「私こき使われていたんですね」
いや、間違っちゃいないのだろうけれど、この人の言葉はいちいち容赦がないな……。
会話に気付いたのか、ふと視線を感じて未夜くんの方を見た。
そこにはふっさふさの耳としっぽがしょぼんとしているように見える未夜くんが……いかん、幻覚が見え始めたようだ。
トーンとにらめっこしすぎて目の錯覚でも起こしたのかしら。
目をこしこし擦って再び未夜くんを見つめると、微かに手のひらを見せて緩やかにこちらへ振ってくれていた。
さよなら、ということなのだろうか。
私も切ない気持ちで手を振り返す。
そんな、受け入れたくない自分の心と戦っているような捨てられた仔犬のような瞳で見つめられてしまったら、帰りたくなくなってしまうじゃないか……!!!
くぅ〜んって幻聴も聴こえてきてしまう。
「え!!女神さん帰るんすか!?」
ようやく事態に気付いた赤髪くんが顔を上げて、昨日の空気のような扱いが嘘だったかのように反応してくれている。
白髪くんも首を傾げてこちらを向いている。
その様子を見て気付いてしまう。
なんと、私は空気から実態のあるものへと、一日で進化を遂げていたのである。
ふぁぁぁ感動……!!
琥珀ちゃんはちゃんとみんなに認識されていますっ……!!!
なお、『女神』に実態があるのかないのかという問題については一旦保留させていただく。
私はまだ地に足をつけている存在でいたい。
「みなさん頑張っている中ですがお夕飯が麻婆豆腐……げふんげふん、遅くなると家族が心配してしまうので帰ります」
「麻婆豆腐」
「麻婆豆腐なんだ……」
「うまそ……」
「やべ、よだれ」
ぺこり、私は皆に頭を下げた。
決して麻婆豆腐が楽しみで自慢したかった訳では無い。えぇ決して。
あ、でも、そのまえにひとつ。
琥珀ちゃんは咲くんの方を向いて尋ねました。
「いおりさん?は、まだここに居ますか?」
朝ぶっ倒れていたいおりさんの件である。
「昨日の部屋にいるよ?」
指をさされた方向は、昨日彼がクロッキーしていた部屋、兼、今朝倒れていた部屋。
ベッドのある部屋にいないということは、起きて作業をしているんだろうか……三徹でぶっ倒れてたくせに。
「お邪魔しても大丈夫ですかね?」
と、許可を頂き、私は咲くんと共に彼のいる部屋へと入らせて貰った。
「ア?なんだテメェ」
「こ、琥珀ちゃんっです!!!」
大丈夫!?
この人昼間にも私に会ったこと忘れてないよね!?
えぇ、でも三徹した人の記憶力が宛にならないのも事実……。
「コハク………………そういや昨日から出入りしてる女お前だっけか」
「そうです」
マジで覚えられていなかった……!!!!
けれど女がここをウロウロしていたことは覚えていたらしい!!
なんかちょっぴり悔しさを感じます。
琥珀ちゃんはそんなに空気なのだろうか……いや三徹してる頭の方が悪いんだきっと。
なんでそれで作業出来てるのか謎でしかない。
机の上では今朝に引き続きカラーイラストを水彩絵の具で描いているようで……書き込みが鮮やかでガチヤンキーとのギャップが計り知れない。
なぜだ……眉間のシワ固定されてんじゃないかってくらい深いのに絵が美しすぎて眩しい……。
その顔とイラストを何度も交互に視線が移ってしまう。
ようやく事実をしぶしぶ受けとめた琥珀ちゃんは、彼に頭を下げてご挨拶。
「お、お邪魔します」
「邪魔しに来たなら帰れ」
「いや!ちょっと渡したい物が!!あるだけなので!!」
お邪魔しますって邪魔しに来たぜって宣言じゃないからね!?
挨拶ですからね!!?
後ろで待機してくれている咲くんから「ぷふっ」と笑う声が聞こえたことを、琥珀ちゃんの耳はちゃんと気付いていますからねっ。
ガチヤンキーの怖さにビビりつつ、でも見守ってくれている咲くんもいるので大丈夫だと自分に言い聞かせて深呼吸をする。
カバンの中を漁り、薄っぺらい正方形のソレを三枚取り出す。
ちょっとお弁当の匂いが封に付いていたらごめんなさいだけれど!!!
そして、いざ、睡眠不足であろう彼に渡す。
「あ?」
「これ……蒸気のアイマスク、ラベンダーの香りですっ」
そう、青髪くんが穏やかで深い眠りにつけるようにと渡そうと思っていたアイマスク。
だけれどウコンを飲んで寝ている彼は、今日はここへは来なかったから。
「さ、三徹は体に悪い、ので……!!」
その三枚を両手でトランプの手札ように持って差し出しながら、琥珀ちゃんはほぼ涙目になっていました。
近くで見るとより怖い!!!!
身体中が『コイツやべぇよ』って囁いてきて震える!!!
主に!!顔が!!!!
でもせっかく持ってきたんだから、是非とも安眠の足しにしてほしくて!!
「これ使って寝てくださいぃぃぃっ!!」
早くこの空間から出たくなってきた私は、そのアイマスク三枚を机の端っこにちょこんと置かせていただいて。
勢いよく90度の礼をしてから爆速で部屋を出た。
下々の者の礼がなぜあんなに綺麗に90度にキまっているのか、これでよくわかってしまった気がする。
ちょっと膝の裏伸ばしすぎた、痛い。
琥珀ちゃんの体は硬いんですよ……。
緊張しすぎて息、止まるかと思った!!!
作業部屋へと戻ってきた私は、机に両手を付けてゼェゼェと呼吸する。
私明日死なない?大丈夫?
余計なお世話だった……?
ていうか爆速で部屋を出てきたのがもう失礼だったかもしれない。
さっきの部屋から、肩を震わせた咲くんが出てくるのを視界の端で確認する。
え、笑ってる?
口抑えてめっちゃ笑ってない??
「……ふっ…………ラベンダーっ……ふふっ……」
「なんでラベンダーがツボになってるんですかっ」
確かにガチヤンキーとラベンダーは似合わないかもしれないけれど!!
三枚も押し付けて来てしまったけれど!!(三日分)
ラベンダーは睡眠にいいんだぞっ!!
「まさか……用ってそれだったとは……っふ」
「睡眠は大事なんですよ!?現に私のこと全然覚えてなかったじゃないですか!!」
学生だと軽視しがちだけどねっ!
寝ないと起きてても頭がスヤスヤモードになっちゃうんだからねっ!!
それで何度顔に絵の具をベチャッてしてきたことか……!!!
水彩絵の具を使っている彼と私が重なり、他人事じゃない。
いや、絶対あの人も絵の具ベチャしてるって。
「いや、割とあの人、俺らのことも女のことも覚えてないから……」
そう赤髪くんが呟くと、白髪くんもうんうんと頷いていた。
未夜くんは首を傾げていて、かわいいけれど。
そもそもいおりさんて人は、人の存在が覚えられない人なのかもしれない。
いや、確かに私も下の人たちの顔みんな覚えられるかと言えば覚えてないし、色が変わってしまったらきっとわからなくなるだろう自信もあるけれど。
「いおりは方向音痴だったり顔と名前一致しなかったり、抜けてるところがあるしねぇ」
咲くんはふふっと笑いながら教えてくれるけれど、それ私たち知っちゃっても後でしばかれない?大丈夫??
「方向音痴……」
ちょっとその話も聞きたいかもしれないけれど、ここだと作業の邪魔になってしまうから、そろそろ引き上げた方がよさそうかもしれない。
「あ、の、続きは車で聞きたいです」
「そうだね、俺がいたら緊張させて作業進まないだろうし」
「…………え?」
『俺がいたら』って。
咲くんが……いっちばん偉い人がいたら、作業が進まない……?(主に下々の者の)
なぜかみんなが作業中、必ず姿を消していた咲くん。
まさか……気遣ってこの部屋から出て行っていたの?
「なる、ほど」
私は大きく頷いて、それまでの謎がひとつ解決したことにアハ体験のスッキリさのようなものを感じていた。
それなら咲くんは原稿作業をここでは出来ないってわけだね!?
琥珀ちゃんは完全に理解しました!!
「うん?なんか嬉しそうだね、琥珀ちゃん」
「むふふ、琥珀は謎がひとつ解けて楽しい気持ちになってきました。今日のソシャゲの10連ガチャもきっと虹色の輝きが私を待ってくれていることでしょう」
「お先に失礼します、お疲れ様でーす」と作業中のみんなにぺこりして、それから咲くんについて下につけてある車まで誘導される。
というか咲くんが私についてくれているのは、一応下々の者からの護衛なのかもしれない。
私が来てまだ日が経っていないから、知らない人もいるだろうし。
いっちばん偉い人が自ら護衛してくれるって思ったらちょっと恐れ多く感じてしてしまうけれど。
いや、もしかしたら送り迎えの短い時間で琥珀ちゃんのことをもっと知りたいだけなのかもしれない……!!
エスコートするように今日も車に導かれて、私は送られていく。
咲くんが一緒だと怖い人たちの中にいてもへっちゃらだから不思議だ。
一人でここへ来たいとは思えない。
下の人たち怖い。またバイクぶんぶんしてる。
「そういえば、下の音ってほとんど上まで響いてきませんね」
バイクをぐるぐると乗り回す人たちを見ながら、咲くんに尋ねた。
「神経質な作業してるからね、完全防音なんだよ」
「振動で揺れたりとかは……」
「耐震対策されてるから多少の地震にも強いよ」
にっこり、これまたいい笑顔。
なんというか、この人色々と徹底して対策している所がある気がする。
さすがリーダーさんだ。
それともボス?
あれ、ボスとリーダーって何が違うんだ??
夕焼け空に照らされた紫が透ける黒髪に、オレンジ色も溶ける。
綺麗な髪色してるよなぁ……と見惚れてしまう、咲くんと私と、運ちゃんのいる空間。
甘い目付きを細めて、また綺麗に笑うと、少し顔が近付く。
「なに、見てるの」
……咲くんだって、穴が空いちゃうくらい、見ているじゃないか。
琥珀は口端に力をキュッと入れる。
雰囲気が美し過ぎて、少し緊張しているんだ。
「……私、美しいものが好きなもんで」
「美術してる人だもんね」
「まさしく」
顔のつくりやらラインやら、サラサラと揺れる髪やら、外の色に溶ける色彩や陰まで。
美しいから、私は見惚れてしまうんだと思う。
「もっと近くで見る?」
「……え、いや、その……眺めているくらいが丁度いい、というか……もごもご」
心臓が一瞬、ギュッと縮んだ気がした。
驚いた、んだと思う。
そんなにサラリと誘惑しちゃいけないよ、くまさんになってしまう。
視線を下へと反らした私の視界に映る、彼の指先。
ゆっくりとその手が登ってくるに連れて、心臓がドクドク、早くなってくる。
なに、何の手?どこ……触れようと、してる?
耐えかねてギュッと目を閉じてしまうけれど、閉じたらもっと相手の動きが分からなくて。
失敗したかもしれない────そう思ったとき。
つん、と、頬をつつかれた。
驚いて目を開けて呆然としてしまう琥珀ちゃん。
うん?
……ほっぺに刺さる指先。
その指先はまた、フニフニと私の頬を弄ぶ。
「やわらかぁい」
ふふっと、イタズラが成功したように笑う咲くんに、私の顔はどんどん熱くなって来て。
「え、ちょっ!!からかうとか酷い人のすることなんですからねっ!?」
「いやぁ、可愛かったー……あぶな」
「つつつつつつ、つつく、のな、のなななっ」
「ふふ、かぁーわい」
咲くんはどうやら、優しいだけの人ではなかったようです。
私をからかって弄んでいたのね!?
ひどいわっ、あんなに恥ずかしかったのに、くまさんになってしまうかとちょっと身構えてもいたのにっ……!!
心臓がまだ、ギュッとした感覚を覚えている。
「咲くんのいじわる」
「ごめんごめん、もうちょっと段階とか大事だったよね」
「そうですっ!仲良しさんになっていくには段階とかちょー大事なんですっ」
わかって貰えたなら、とりあえず今日のところは、いいだろう。
けれど明日も、作業しに黒曜へ行くことになるんだろうけれど。
顔の熱も引かないままに、お家へと着いてしまって、私は彼と運ちゃんにバイバイをした。
はぁ……10連ガチャの運気を吸い取られていなければ、いいんだけれど。
お夕飯の麻婆豆腐はちょっぴり辛くて、でもそんな辛さが今日のところは心地が良かった。
食べることに集中出来たから。
今日はゆったりとした時間がたっぷりあるので、お風呂でゆったりまったり……していると、また咲くんの顔がふわりと浮かんできて。
悶えてはかき消して、悶えてはかき消して。
そうやって、蒸気のアイマスクのラベンダーの香りに包まれながら、就寝した。
ガチヤンキーさんもちゃんと、使ってくれているだろうか?
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