8.おはようとは?



ここで、大切なことを思い出す琥珀ちゃん。




きっと皆々様も「どんな状況???」となっていたあの場面があったことだろう。


私も非常にあの光景は衝撃的で、衝撃的だったけれども作業をしているうちにすっかりと抜け落ちていて。


咲くんにあの謎を聞くことも忘れていた。




そして今、その『答え』が、私の目の前にある。




「……あのときのゴリゴリマッチョがムキムキマッチョの腰にしがみついていたのって……この場面の絡みを描いていたんですね……」




三日目、本日は予定されていた最終日の原稿作業の日である。


そこにはまだ今日は消えていなかった咲くんが私の席の前に立って居たので、先程背景の黒縁メガネさんに渡された原稿を咲くんにも見せていた。




「あぁ、あの時の」


「しかも立ってる方が女の子だったんですね……?」




まって、この場面くそシュールすぎない?


というかあの筋肉ムキムキマッチョ君を女の子と見立てて絡ませるのって体型的にも身長的にも無理があるんじゃ……。




なのに結構これが意外とちゃんと原稿に違和感なく描かれている。


どちらもちゃんと服を着ているし、ムキムキマッチョでもない。


どちらかというとヒョロく描かれている。




「まぁ身長は背景から身長を割り出したり、体型もちょっと肉を削ぎ落として元々描いてるキャラの対比に合わせればいいわけだから」


「なんというBefore After」




なんということでしょう。


こちらの大胸筋むき出しムキムキマッチョさんは、艷めく髪の長い美しい女性に。


こちらの三角筋ゴリゴリマッチョさんは、ヒョロそうなモヤシ男に。




ハートが割れているので彼はきっと失恋したんだろう、知らんけど。


吹き出しの中、何も書いてないし。




ていうか体型がこんなに変わるならマッチョーズはなぜ脱いでいた???




「体型を変えて描くと言っても、そのまま描くよりはやっぱり難しいし、時間もかかるみたい。違和感も出たりするみたいだよ」


「確かにゴリムキマッチョ見ながら可愛らしい女の子描くのはちょっと無理ありますよね」


「うん、そうなんだよ。だから琥珀ちゃんがいると、いおりもとっても助かると思うんだ」


「そうで…………………はい?」




うん?




「女の子が居ると、女の子のキャラを描く時に楽になるよね」


「…………女の子」


「うん、女の子」


「………………それはつまり」




決して自分が女の子と呼ばれたことに違和感があるわけではない。断じて。


琥珀ちゃんは心も体もうら若き乙女だということを前提として。




そんなことよりも今、さりげなく……私、今後あの絡みのポジションに入れって言われています???




「え」


「実は女の子を連れて来て描いていた時もあったんだけど、アピールが鬱陶しい子ばっかりでね」


「あぴーる」


「2,3人みて、すぐやめちゃったんだ。それ以来、下の子たちに来てもらってて」




女の子たちを連れてきて、描いてたことはあったらしい。


アピール鬱陶しいって……?


なんの……??




「その点、琥珀ちゃんは全然媚びたりしないで真剣に作業してくれてたし、安心だね」


「……私、描かれるんです?」


「それも兼ねて連れてきた様なものだからね」




にっこり、お得意の煌めきスマイル。


これは……いつものように押し通されるパターンなのでは。




いや、別に嫌という訳では無い、けれど、つまり?


あのいおりさんと同じ空間で、あのいおりさんに描かれるということで。




緊張で胃に穴開かないだろうか?大丈夫?


というかこれでキャラ絵担当がいおりさん確定したじゃないか。まさかのここで。


話作っているのもガチヤンキー・いおりさんなんだろうか……?




「咲、そろそろドロンして」


「あ、ごめん」




背景の雨林さんが黒縁メガネの奥から鋭い眼差しでこちらを見ていて、そう口を出されたことによって、咲くんがいつものようにドロンすることになってしまった。


今日も作業中はこの部屋にはいないようだ。




「じゃあ、俺はまたお昼に来るから」


「あ……ハイ、引き止めてすみません」


「いいよ。今日も頑張ってね」


「ありがとうございます」




今日の下々の仲間たちは黒、黄色、いつもの赤髪くんのベルギー色だ。


赤髪くん、キミずっといるね!?




それより黒髪の君は、この倉庫では珍しい色をしている……。


真面目っ子?それとも黒髪がお好き……?


ちなみに琥珀ちゃんは名前にあやかって茶髪である。




「あ、女神さん」




朝から私に気付いてくれた赤髪くんに、それに気付いてこちらにぺこりとしてくれる黒髪くんと黄色……金髪くん。


なおこの前の金髪くんとは別の人のようで、ベリーショートでサイドが刈り上げられている金髪くんだ。


イカついなぁ……。


ちょっとビビってしまう。




「俺たちもう今日の午後には仕事なくなると思うんすけど」


「……え」




これまで共にこの戦場を歩んできた彼らが……午後には仕事がなくなると……?


あれ、私の仕事もなくなるのだろうか……?




「俺たち不器用揃いで、ベタと消しゴム掛け以外ほぼ出来ねぇんで、もう残りがトーンとか背景とかペンの作業になるとなんも出来ないんすよね」


「な、るほど?」




君たち消しゴムもちょっと甘い所があったくらいだもんね!!!


といっても毎回メンバーが変わっているので今日の二人はどうなのか知らんけど。




「午後は未夜さん来るんですけど、もう下で細かい作業の出来る奴いないんで」


「それはつまり午後から未夜くんと二人でドキ☆ドキパラダイ──」


「ゲフンッ」




その時、我を忘れてとんでもないことを口走りそうになった(もう口走ってる)奥の席から、げふんと喉を鳴らす一人の男がいた。


他の誰でもない、ここに来た日からずっとあの席に佇んでいる背景の雨林さんである。


黒縁メガネの上からこちらを射殺しそうな鋭い瞳で瞳孔を開いていらした。




「三人、でした」




そう、未夜くんが居なければこの人と二人きりという事態になっていた所だ。


なにそれ怖い。


昨日ブチ切れてんの聞いてるから余計に怖い……!!!




私は速やかに原稿を広げて作業に取りかかっていく。


もう無駄口は叩くまい……集中して彼への恐怖心を忘れるんだ琥珀ちゃん。


琥珀ちゃんなら出来る、午後には癒しの王子様・未夜くんが来てくれるのだから……!!




そうしてかれこれ3時間、琥珀ちゃんは必死に作業を続けていたのであった。

















ていうか午前中だけで3時間っていうのもなかなかにキツい。


特に腰が。

(細かい作業は前かがみになる)


いや、ずっと力んでいた肩も痛いけれど。




ソファーにもたれて背中を伸ばすお昼時。


二段重ねのお弁当箱を抱えたまま、私は天井を眺めていた。


ダメだ、遠くを見ていないと目が霞んでくる。


おばあちゃんか。




むにむにと目を擦っていると、額に冷たい何かが当たり、驚いて目を見開くと、そこにはプルシアンブルーの髪色の奥から覗く真ん丸な瞳が。




「おはよ、琥珀 」


「……お、はよ」




額に当たるのは、今日もブカブカなシャツを着ている未夜くんの指先。


下に着ているだろうタンクトップがチラ見えしていらっしゃる。おっふ……。




下から眺めるその姿も可愛らしすぎて、ずっと眺めていられる。


そーきゅーと、そーぷりちぃ、そーびゅーちふる(←New)。




「……そういえば、なんでおはようなのか、聞いてなかった」




半分ほど思考がもう空中をふわふわと漂っている私は、きっとしばらく彼にどうでもいい話をしてしまうことだろう、許しておくれ。


眼精疲労と頭の疲労が琥珀ちゃんのなけなしの思考力を奪っていくんだ……。




「おはようって……今の?」


「お昼でも夜でも、おはようなの?」


「そうだね」




よしよしと、前髪をサラリと流して撫でてくれる冷たい指先が、気持ちいい。


このまま眠れそう。


というか私の休日今週なかったじゃないか、明日から学校だわ。




「おはようっていうのは、自分より先に現場に入っている人に対して、「早くからご苦労さまです」っていう感じのねぎらいの言葉。元は歌舞伎で使われてたらしいけど」


「早く現場に入っていた人に、おはようございますって言ってるってこと?」


「それが業界用語として広まったみたいだよ。他にも挨拶を統一する意味もあったり」


「確かにいつでもおはようございますで固定されてると挨拶に困らない……」




お昼前とか、夕方とか、中途半端で困る時間帯ってあるよね。


画期的すぎないか?おはようございます。


歌舞伎……だから芸能界とかでよく言われているのを聞いたことがあったのか。




ていうか、漫画の業界でも使われるんだね。


漫画家の人たちって表側にほとんど出ないし、知らなかった。




「夕方頃におはようって言ってる人見かけたら業界の人説?」


「結構使われてるからなんの業界かわからないけどね」




他人の挨拶とか気にしたこと無かったわ。


というか、思っていたよりミッチリ業界に染っているんじゃないだろうか、この現場。


下の子たちはお疲れ様って言ってた気がするから、上の人たちだけ使っているのかな。




「琥珀」




柔らかく名前を呼ばれ、心地良さに瞑っていた瞼を上げる。


未夜くんの視線は私の膝の上……お弁当箱にあった。




「あ、そうだった」




またじっとりとお弁当箱を見詰めている子犬系男子未夜くんの為、私の今日のお弁当箱はちょっとだけ多めなのだ。




「たまご焼き、たべる?」


「!!たべる!」




昨日はたくさんたくさん、未夜くんにカッターの使い方を教えてもらったから。


ほんのちょっとだけど、お礼の気持ちで、多めに入れてきたんだ。




ほくほくと喜んでくれているらしい未夜くんが私の座る隣に腰掛けると、この二階と外を繋ぐ扉が開かれた。


今日もコンビニ袋に大量のおにぎりを買ってきたらしい下々ーズは、どうやら毎日お昼の度に倉庫の外にあるコンビニへと買い出しに行ってきている様子。


男の子三人がかりで10は越えるおにぎりたちがすぐに無くなってしまうのは、もはや清々しい。




今日も袋を豪快に裏返してボトボトと落としていくおにぎりたちの端から、みんなの手が伸びて、砂崩しゲームのようにおにぎりがなくなっていく。


食べ盛りの男子高生怖ぇ……。




と、その時琥珀ちゃんはハッとして思い出す。




「あ、まって!いおりさん、には持ってかなくていいの……?」




確か昨日「喰うのはまだ」だかなんだか呟いていたので、お昼にお腹を空かせたまま作業していても不思議無さそう……と思ってしまう。


睡眠を犠牲にしてまで熱中するなら、飲食を忘れていても不思議ない。




雨林さんはお昼になって早々に外へ出て、作業の再開まで戻っては来ないし。




「いおり、さん……??」




彼らはそんなことを気にしたこともなかったのか、キョトンとしている。


未夜くんに至ってはもう私のお弁当箱にしか視線が向いていない。




「あの人ずっとあの部屋に籠ってるじゃない」


「まぁ……はい、たしかに」




黒髪くんも金髪くんも、私が言い出した事に少し怯えた表情すら見せる。


こいつ何言い出してんだって顔してる。


私だってあの人は怖いのだ、気持ちは分かるけれども。




けれど、やっぱりお腹空いたままぶっ続けで作業はキツいよっ!!


琥珀ちゃんなら耐えられませんっ!!


むしろ10時と3時のおやつの時間も設けたいくらいだっ!!




「昨日も、一昨日も、私は無事だった」




うん、私はあの人になにも手を出されていない。


常に咲くんが近くで見守ってくれていたけれど、今日はまだ来ていない。




「また倒れちゃったら困るもん、ダメ?」


「いや、おにぎりはその……いくらでも持ってっていいんすけど……」


「ありがとう」




ちょっと涙目になって、そのおにぎりの中から2つほど拝借する。


好きな味とか、なにも知らないけれど。




私は、思っていたよりも昨日倒れていたあの人のことが心配になっていたようだ。


青髪くんの時もそうだったけど。


実際に、目の前で人が急に意識を無くす所をこの目で見ていて何も出来ないことが、どれだけ怖いことか。




潤んだ私の目の下を、冷たい指ががサラリと擦る。


未夜くんの、冷たくて気持ちのいい、するりと長細い指先。




「いいよ。付いてく」


「……え」


「琥珀怖いなら、俺もいおりのとこ付いてく」




私の手に降りて来た指先が、キュッと私を握り締めて、力をくれる。


未夜くんは他の人と違って、二階の人たちを怖がらない。


内心はどうなのか知らないけれど、全然恐れているような感じを出さない。




「……来てくれる?」


「大丈夫、俺いれば琥珀、怖くないよ」




そう言って、私が安心出来るようにふわりと笑いかけてくれる天使。




「未夜、くん……!!」




怖い、けれど心配、でもやっぱり怖い。


そんな気持ちがせめぎ合う中で、勇気をくれる未夜くん。


エンジェルスマイルが眩しいぜ。




「ただ、ひとつだけ」


「なに……?」




なにかお願い事があるのかと少し身構えていると。




「たまごやき、ひとつ食べてからでいい?」




どうやら未夜くんはここまでたまご焼きを我慢してくれていたけれど、我慢出来なくなっていたらしい。


いいよ、お食べ。


私は未夜くんにお箸を渡した。




くっっっそかわいいなぁ、もう!!!!




「未夜さんて……こんな人を甘やかす方でしたっけ……」


「いや、昨日初対面なはずで、既に手懐けられていた」


「なん……だと……」


「琥珀さん何者なん……」




コソコソと話し合う下々ーズを背に、私たちはいざ、いおりさんの元へとおにぎりを届けに行く。




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