想いを認めた時が、その恋の終わり。
「推しが、おりました。」
電車の音に紛れてしまいそうなほどにぼそぼそと呟いた晶子の言葉に、ユタ氏が訝しげな顔をした。いつものように同じ車両に乗って来たユタ氏は、挨拶もそこそこに晶子の雰囲気の暗さにどうしたのかと尋ねたのだったが。
「ん?なんて?」
晶子の言った言葉の意味がわからなかったのか、それともよく聞こえなかったのか。ユタ氏は身体を傾けて、晶子に少し耳を近づけた。
「推しが、おりました。」
晶子は、電車の音に負けぬようにそう言い直したが、それでもユタ氏の訝し気な表情は解れない。
「おりました?」
「はい。」
「何から?」
どうやら全く伝わっていないらしいことを知り、晶子は状況を説明する。あーちゃんがJの配信に再び参加しだしたこと。そこで色々あって、酒井が怒って、実はカイリ様で。あーちゃんが怒って、酒井が謝って。その後、話すことができなくて。そして晶子は、またあの得も言われぬ何とも言えないもやもやに囚われる。
「よくわかりませぬが、つまりはもっさりがカイリ様だったと?」
「
ユタ氏の言葉を肯定しながらも、晶子はまだ少しパニくっている。ただ、酒井がカイリ様であることだけは、なぜか妙に納得していた。
「問題ありや。(問題あるだろうか。いや、ないだろう。) 」
「いや、ありありのありですやん。」
「ちなみに、どんなところが?」
「どんな…?」
そう、もやもやする原因は、それが何だかわからないからだ。酒井がカイリ様で、カイリ様が酒井で。そこに何の問題があって、こんな気持ちになっているのか。
「カイリ様からしたら、黙っててスミマセンでしたっていう話でしょ?」
「ん。」と頷いて肯定すれば、ユタ氏は納得したようにうんうんと頷いた。確かに酒井は、始めこそ怒っていたようだったが、自分がカイリ様だということを隠していたことについては謝っていた。晶子はひどく申し訳なさそうにしていた酒井を思い出す。彼は、あんなに謝らなければならないことをしたのだろうか。
(私が、カイリ様を推しているって言ってたから?言い出し辛かった?)
あーちゃんは、裏で笑ってたなんて言っていたけど、どうしても酒井がそんなことをするようには思えなかった。SNSでのカイリ様も、リアルの写真はブルグレーのパーカーを着たあの一枚きりだ。学生か、社会人かすら匂わせなかったことを思えば、極力身バレを避けていたに違いない。晶子自身の『ミコ』がそうであるように。『ミコ』のアカウントだって、リアルで知っているのはユタ氏ぐらいだ。―――そう考えれば、酒井がカイリ様のことを言い出せなかった気持ちもよくわかる。
「私が、ミコだから?」
「問題ありや?」
「いや、ありありのありですやん。好き好き、めっちゃ言いましたやん。」
壊れかけの晶子に、ユタ氏が苦笑する。小学校時代から何度も見て来たその笑顔に、晶子は少しだけ落ち着きを取り戻した。ユタ氏の苦笑は、晶子の精神安定剤のようだ。
「確かに、好き好き言うてました。」
「ハートマークも大量につけておりました。」
「確かに、大量につけておりました。」
どこかの家のおかんのように、そのまま肯定されて、晶子は泣きそうな顔になる。電車がガタンと揺れて、二人は咄嗟に手摺に捕まった。電車はそのままゆっくりとスピードを落とし、そして停車した。止まってしまった風景を二人並んで眺めていると、「停止信号です。しばらくお待ちください。」と車内アナウンスがかかる。
「どうしよ。」
それが、電車が停止したことに対してでは無いという事は、ユタ氏にはすぐにわかった。電車の音が消えた車内で、少し声を落とす。
「ミコのSNSは彼にバレておるので?」
「バレてない、と思う。」
「では、やはり問題無いのでは?」
「問題、ない?」
パッと表情を明るくした晶子が、ユタ氏の言葉を待つ。そんな晶子を見て、ユタ氏が真面目な顔で言葉を続けた。
「ミコであることがバレて無いんなら、何もそこまでミタ氏側に問題は無かろうもん。」
「そう、か。」
そう言われてみれば、そうかもしれない。彼の中で、私はただのカイリ推しのクラスメイト。
ただの?
「推していることはバレておりますが。」
「バレとるんかーい!」
そう言って、ユタ氏が困ったように笑えば、晶子の表情はみるみるうちに曇っていく。ガタンと再び電車が揺れた。どうやら動き出すらしい。動き出した景色に一度目を向けたユタ氏が、もう一度晶子の事を見た。それは、とても優しい目だったと思う。
「では実際、もっさり様のことは?どう思っておられるので?」
思わぬ質問に、晶子は目を見開いた。ユタ氏は優しく笑ってその答えを待っている。
「酒井のこと?」
「酒井のこと。」
「酒井のことは。」
酒井のことは。
好きなんだと思う。まだ認められない自分もいるのだけれど。
言葉に出していないのに、顔がみるみる赤くなってしまったのがわかった。晶子は両手で顔を覆う。
「わ、わかりません。」
晶子の答えに、ユタ氏がケラケラと笑う。晶子は、笑われてますます顔が赤くなった気がした。車内の温度も上がったように感じる。
「では、カイリ様のことは?今はどう思っておられるので?」
「どうって。」
顔を上げてユタ氏を見る。カイリ様はカイリ様だ。陰でこつこつと作業をして、みんなを支えている、ブルーグレーのパーカーを着たカイリ様。
「大、好き、です。」
ユタ氏がふふっと優しく笑った。認められないでいた気持ちが、今はっきりと形になる。そう言えば、本当はそんな気持ちについてユタ氏に話したいと思っていたことを晶子は思い出す。そんな気持ちから沸きあがる、暗い気持ちを認めたくなくて、モヤモヤとしていた昨日が嘘のようにずいぶんと昔のことに感じた。
「では、その酒井でありカイリ様でもあるサカイリ様に気持ちが伝わってしまったというか、伝わっていたというのが問題ということですかな。」
「なる、ほど。」
ああ、そうか。───ユタ氏の分析に、パニックだった頭が少しだけではあるが、通常に近づいていく。好きだという気持ちが、好きな人に伝わっていた。だからと言って、酒井が何も言ってこなかったということは、そういうことなのだろうか。いや、そういうことなのだろう。
そう気が付いてしまえば、暑いと感じていた車内は一気に冷め、悲しい気持ちが充満していく。
「私は、失恋をしたということなのでしょうか。」
晶子の呟きに、ユタ氏が黙り込んだ。カイリ様の『気になる子がいる』発言を、ユタ氏もどうやら思い出したようだった。
「サカイリ様に確認する勇気は?」
「そんなものは、持ち合わせておりませぬ。」
「だよね。」
やっと陽キャになろうと努力を始めたばかりなのだ。こんな、イベントを誰が待ち望んでいたというのか。隠していたことを、謝っていた酒井。彼を責める気は全く無いけれど、だからと言って普通に話せる気が全くしない。
「あとはミタ氏が普通に話せるかどうか。」
「あああああ。」
追い打ちをかけるように告げられたユタ氏の言葉に、晶子が両手で顔を覆った。それが一番自信が無い。それでも話さなければ、酒井を責めているようになってしまうのだろうか。晶子が肩を落とすと、「まあ、なるようになるさ。」と、ユタ氏が慰めにもならない言葉をかけて、そっとその肩を叩いた。
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