第3話 赤ん坊
私は元々、産婦人科医をしていまして。ええ。辞めてからそろそろ5年になりますか。今は、製薬会社に勤めています。
何故、辞めたのか?
そうですね。昔から医師になるのが夢だったので、辞める判断をした際は悩みました。けれど、それは間違いではなかったと今では確信しています。
その時、担当したのは30代の女性でした。
容体も安定しており、出産に際しての危険もほとんどなく、私自身も安心していました。
予定日が10日程早まりましたが、分娩室に入った私はまだ落ち着いていました。問題なく出産が成功すると確信していました。
しかし、いくら待っても赤ん坊が出てこない。
あまりに出てこないので、臍の緒が絡まっているのかと思い、急遽、帝王切開をすることになりました。ええ、よくあることなんですよ。
患者に確認して麻酔を打ちました。その後、オペ室に移動させ、緊急手術を開始しました。
メスを使って腹部を切り開きました。
腹を開いて赤ん坊を取り上げようとしたんですが、いないんですよ、中に。
事前のエコー写真でははっきりと写り込んでいた筈の赤ん坊が消えてしまっていたんです。どこにもいない。
さらに、突如として、患者の容体が悪化して、脈拍がどんどんと弱まっていく。院内大騒ぎで、大勢の人間がオペ室に集まりました。手は尽くしました。残念ながら、患者はそのままお亡くなりになってしまいました。
私の名誉にかけて、施術に問題はありませんでしたし、途中までは容体も安定していました。あそこまでの急激な悪化は今まで体験した事がありませんでした。
産まれる筈だった赤ん坊が姿を消し、最愛の妻まで無くした旦那さんは酷く荒れました。当然のことです。止める看護師の手を振り切って、私を何度も殴りました。抵抗する気も起きませんでした。
私にとっても、何が起こったのか理解できないことだったんです。
私はオペ室に一人、佇んでいました。患者の遺体を見つめ、自らの無力さを噛み締めていました。
その時、事切れた筈の患者の口が動いたような気がしたんですよ。幻覚だと思いましたが、再び弱々しく口が動いている。奇跡が起こったのだと、驚きながらも呼吸を確かめようと患者の口元に耳を近づけました。
「おぎゃあ」
未だに耳にこびりついています。赤ん坊の声ではなく、間違いなく成人女性の声でそう鳴きました。
「おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ」
腰を抜かして倒れ込んだ私にその鳴き声は何度も何度も降りかかってきました。恐怖のあまり私はそのまま気を失いました。目が覚めると、宿直室のベッドでした。患者のことを尋ねましたが、当然、息を吹き返したということもなく、霊安室に移されたとのことでした。
その事があってから、妊婦の方に向き合う事が出来ず、そのまま仕事は辞めてしまいました。今でも、赤ん坊の鳴き声を聞くと震えが止まらないままです。
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