第15-2話 真実(中編)

 やや日が長くなってきたとはいえ、本日の勉強を終え『アトラス』を出る頃には完全に夜の帳が降りていた。それでも、思い出したように降る牡丹雪が街灯を反射して柔らかな明るさをもたらしている。


「あ……雪……、今日は降らない予報だったのに……」


 外の景色を見た千景が呟く。私はウィッグを濡らすわけにはいかないので、常に折り畳み傘を携帯しているが、今日の天気予報を見て傘を持ち歩くのは少数派だろう。駅までは大した距離ではないし、雨に濡れるよりは雪の方がいくらかダメージが少ない。とはいえ、自分だけ優々と傘をさして歩くのも気が引ける。


「折り畳み傘持ってきてるから一緒に入りなよ、ちょっと派手な柄だけど」


 それはいつだったか出先で急に雨に降られた際に、在庫処分のためかやたらと安価で売られていた折り畳み傘を買って難を逃れたときのものだった。夜桜を模した派手な柄は、普段使いには少々難易度が高くお蔵入りとなっていたのだが、白中ルナの格好ならば多少派手な小物でも許されるような気がして持ち歩くようになった。

 千景は少し逡巡していたが、私が千景の上にも被さるように傘を差すと、素直に隣についてきた。


 小さな傘に収まるくらい近づいた二人の距離を沈黙が埋める。私も、千景にいたっては殊更口数の多い方ではなく、これまでもこういった間は何度かあった。しかし、先程の一件があったせいか、距離が近いことも相俟って余計に妙なぎこちなさが残る。

 勝手に口付けしてしまったことをどう思っているのか聞くべきだろうか。だが、そんなことをしてなんになるというのだ。意中の相手でもない人間に唇を奪われて、それが不快でないわけがない。その気持ちを押し殺した“なんとも思っていない”という台詞を聞いて自分が安心したいだけのように思える。


「あの図書館にいた人たち……」


 千景がぽつりと話し始める。


「……大きな声で話してた人たちいましたよね。私、中学時代にあの人たちにイジメられていたんです……」


 私はやはりそうかと思った。そう語る彼女の声は震えて辿々しい。


「……最初は遠巻きに悪口を言われるだけだったんですけど、日に日にエスカレートしていって……物を隠されたり、乱暴されたりして……私がはじめから抵抗していれば良かったんですけどね……」


 そうして自身の傷を抉る必要はあるのだろうか。私がその独白を聞くことで気が晴れるのならば良いが、却って自分を苦しめることにならないか。中学生活は既に終わって久しい。嫌な思い出ならば記憶から抹消してなかったことにしてしまえば良い。


「……一度そういう標的になったら味方は誰もいません。数少ない友達も私を無視し始め、私を積極的に虐める層と私を完全にいないものとして扱う層に二分されました」


 さらに千景の声が震え、言葉の一つ一つが声道を通るのが鈍くなる。おそらく、彼女の中でももっともトラウマとなっている出来事がこの先にあるのだ。


「あのさ、辛いなら無理に……」


 そう言いかけて口を噤む。彼女が私の傘を持つ手を強く掴んだからだ。歯を食い縛り真っ直ぐに何もない虚空を見つめる。そうか、これは彼女にとっての精算なのだ。ずっと自分の内側に秘めていた過去を洗いざらい他人に話すことで、これは自分の中で決着が着いた話だと、何よりも自分に言い聞かせるために。ならば私は耳を傾けるべきだ。白中ルナの姿で亮介の鼻を明かしたあの日、聡子と麻美が私の話に傾聴してくれたように。


「……当時、クラスで同じようにイジメられていた男子生徒がいたんです……。私がいうのもなんですが、目立たない方で気弱な感じの……。彼には連絡を取り合っている相手がいました。……私の名前を騙ったイジメ主犯格の男子生徒です……!」


 千景の声に憎々しさが混じる。


「……私の名前でどんな会話がなされていたのかは知る由もありませんが……いつの間にか私は彼に告白されていたようです……。事態を聞きつけた女子グループがその男子グループと共謀して、私とその男子生徒が付き合うように囃し立てました。そして……教室中が彼と私にキスをするよう促しました……彼も私も背後にいる主犯格グループが怖くて……もっといえば狂気にあてられたクラスのみんなが怖くて逆らうことはできませんでした……。その次の日から、私は学校を休むようになりました……」


 私は戦慄した。私だって中学時代は友達がいなかったしクラスでも浮いていた。それでもそんな仕打ちを受けることはなかった。なんだって人はそこまで畜生に成り果てられるのだろう。


「そんなことって……!」


 憤る私に対して彼女は静かに首を振る。


「……いいんです。いえ、ちっとも良くはないし許せないのですが、もういいんです。正しくは、今日でどうでもよくなりました」


 千景はこちらを見る。彼女の言わんとすることがわからない。彼女の声色からは先程までの震えが消えていたが、代わりに別の緊張感のようなものを感じる。


「……ルナさんからすればさっきの……治療行為以上の意味はないんだと思いますけど……私にとっては違いました……」


 そのような過去があったとわかっていればあんな行動には出なかった。私のせいで彼女のトラウマをより深く掘り返す結果になってしまったのではないか。

 一層の罪悪感に苛まれる私を他所に、彼女は足を止めてこちらを見つめる。その表情は降り頻る雪とは対照的に熱く火照っている。


「……私、あのとき……なんというか、安心してしまったんです。それがなんでなのか……私の人生における口付けの記憶があの屈辱的なもので終わらなかったからなのか、私のことを必死になって助けようとしてくれた方のものだったからなのか、それとも、私が思いつかないだけでそれ以外に理由があるからなのかわからないですけど……」


 恥ずかしそうに言葉を探す千景。自分の気持ちがわからない、今抱いている感情を表現する言葉が見当たらない、自分がどうしたいのかさえわからない。1m先も見通せない混沌カオスの大海原を一人泳いでいる、彼女の様子を敢えて言い表すならばそのように形容する。しかし、それでも今の彼女の目にはささやかではあるが希望があった。無為に流されているだけではなく、懸命に生きようともがいている。


「……あの……もし迷惑じゃなければ……もう一回だけ……! って、私なに言ってるんでしょうね……もう過呼吸は治ったのに……あはは……」


 それは、私が彼女と過ごすようになってから初めて見せた彼女の我儘だった。


 私は怒りとも悲しみともつかないやるせない気持ちに包まれる。神という存在がもし本当にいるのなら、その悪趣味に人間を巻き込むのも大概にしろと言いたくなる。こんなにも傷ついて、やっとの思いで振り絞った望みがそれだ。彼女をこんな風にしてしまった世界を恨みそうになって思い出す。以前にもこんな感情を抱いたことを。それは全ての始まり、亮介と鉢合わせになったあの日、私はこの世界から爪弾きにされたような気になって妙にむしゃくしゃしていた。大きく違うのは、あの日は自分のことで、そして今は他人千景のことでそれを感じているということ。そうだった、この世界はそもそもそういう風にできているんだった。慎ましい者、真面目な者、不器用な者、正しい者、そういう人間が損するようにできている。ならば天邪鬼で性根の悪い私は敢えてそれに逆らってやろう。蟻のようにちっぽけな影響力かもしれないが、少なくともそれで少しは私の気が晴れるかもしれないから。


「ちょっとこっちに来て」


 私は近くのビルの軒先に彼女を連れる。二人分の足跡が人々の行き交う流れから逸れた方向に向かって伸びる。その終着点では、先程まで二人を降雪から防いでいた季節外れの夜桜が大通りに向かって開いていた。

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