第15-1話 真実(前編)

 暦の上では間もなく立春を迎え、俄に日が長くなるのを感じる。路肩に積もっていた雪は融けては降り積もりを繰り返しながら日に日にかさを減らしている。


 放課後に千景と会って勉強を教えることはすっかり習慣となりつつあった。千景も出会った頃に比べると、幾分慣れてきたためか、少なくとも私と話す際には出会った当初の挙動不審さはなくなっていた。それでもやはり、勉強を教えることを介さない会話は長くは続かず、相変わらず千景の考えていることは良くわからなかった。千景は、まさか私と麻美に繋がりがあるとはつゆ知らず、他校の生徒と成り行きで一緒に勉強をすることとなったことについてはどう考えているのだろう。


「えーと、62点。最後の問題は応用だから捨てるとして……この辺は単純な計算ミスだから……ここが取れるようになれば、えーと……7割はいけるよ! やった!」


 聖蘭の赤点のボーダーは35点。今の正答率であれば余裕をもってクリアできる。だが、千景の前期の成績は絶望的なため、今回の考査でできる限り得点して総合成績を伸ばしておきたいところだ。


「うそ……こんな点数取れるようになるなんて……」


 千景は自分で自分が信じられないというような表情をしている。


「数学が一番のネックだったけど、今や一番安定してるよ。すごいじゃん!」


 私の言葉にもぞもぞと不思議なリアクションをとる千景。ああそうか、彼女はこういうときにどのような反応を示せば良いのかわからないのだ。いや、正確には、その反応の根底にある感情を自ら押し殺していたため、自身が今どのような気持ちを抱いているのかさえ理解できていないのかもしれない。そしてそれは私にも身に覚えがあった。友達が、少なくとも些細な雑談のできる関係の人間が周囲にいないと、自分の感情の機微を誰とも共有することが出来ず、やがてあらゆる事柄に対して一喜一憂することが馬鹿馬鹿しくなり、感情との向き合い方がわからなくなる。実際、私は聡子や麻美と遊ぶようになるまではそうだったし、今でもまだ、自分の感情というものに向き合いきれているわけではない。麻美のオーダーがあったからこそこうしてリハビリの真似事のようなことをしているが、私なんかよりもっとコミュニケーション能力のある人間に任せるべきではないだろうかと未だに考える。麻美の依頼自体は私のけじめに関することだからそれが嫌だと言うつもりは全くないが、デリケートな内容だけにその役割は私には相応しくないのではないかと、ことあるごとに自問自答を重ねていた。

 そんなことを考えていると、おおよそ図書館には似つかわしくない話し声が辺りに響いた。


「ギャハハハ! うっそ、マジそれ? あり得ねー!」


「ヤバいっしょ!? キモすぎてアタシ死ぬかと思ったし」


 三人組の女子高生が入口の方から歩いて来る。一人はブリーチで傷んだオレンジ色のミディアムヘアー、一人は小太りで黒髪のロングヘアー、もう一人は、小柄で金髪に緑色のメッシュを入れている。着崩してはいるが、その制服から土浦商業高校、通称“土商”の生徒だということはわかった。彼女らは向かって左側の席にドカっと座る。私たちの席からはかなり離れてはいるが、静かな図書館では彼女たちの会話がやたらと響いた。言ってしまえば品のない素行の悪い生徒といったところだろう。二ツ谷高校ではあまりお目にかかれないタイプの人種だが、中学の同級生らの中には似たようなタイプがちらほらといたような気もする。図書館に勉強をしにきたようには見えないし、ましてや書物を漁りにきたようにも見えない。彼女らは休憩スペースかなにかだと勘違いしているのか、そのまま雑談を貪り始めた。周りが見えていないのか、それとも見えている上で敢えてそれに逆らうのが時流に乗っていると思っているのか。先程まで漂っていた図書館の静かな空気は跡形もなく消え去った。

 いずれ誰かがクレームを入れるか、それより先に見かねたスタッフが追い出すだろうが、この空気の中勉強を続けるのもどうだろうかと思った私は千景に声をかける。


「……なんか、気が散っちゃわない? なんだったら……」


 言いかけて、千景の様子がおかしいことに気づく。シャーペンを持った手がカタカタと震え、顔面は蒼白を呈している。呼吸が荒く、汗ばんだ手でノートのページの端が丸まっている。


「ど、どうしたの!? 具合でも悪い?」


 私の問いかけに彼女は首を振る。だが、どう見てもただごとではない。そうしている間にも、彼女の呼吸はさらに乱れ顔色はますます悪くなる。彼女は苦しそうに浅い呼吸を繰り返すのを見て私はハッとする。これは過呼吸かもしれない。


「ちょっと待ってて、今スタッフを……」


 そう言って席を立とうとする私の腕を掴んで引き止める千景。同年代平均よりも貧弱であるとはいえ、一応男である私でも強い抵抗を感じる。彼女は苦しそうに喘ぎながらもことを大きくしないでくれと、懸命に前髪から見え隠れする目と微かに漏れ出る声にならない声で訴えてくる。それは初めて見た彼女が明確に自己主張した瞬間であった。とはいえ、このままでは彼女の身が持たない。なぜこんなことになったのか、私はどうすべきか考えを巡らせる。


『……あのコ、中学の頃に同じクラスの女子グループから虐められてたみたいで……』


『えっと……土浦駅です……』


『……マジそれ?あり得ねー!』


 頭の中をいくつかの台詞が巡る。ガラの悪い土商の女子生徒、彼女らが現れたタイミングで体調に異変を来した千景、もしかするとこれは──。


「ちょっとこっち来て……! ゆっくりでいいから……!」


 私は千景に肩を貸し、彼女を席から立ち上がらせると、奥の方の専門書の立ち並ぶ人気のないコーナーまで連れて行った。経済学、法学、医学、農学、理工学と普段目にすることのない標札を横目に奥へ奥へと進む。先程までいた席からある程度離れたところで、そこに並んである一人用の席に千景を座らせると、彼女は倒れ込むように椅子に雪崩れ込んだ。置物のように身体を凝固させていた先程よりは幾らか楽な体勢を取れている。これはあくまで推測だが、彼女がこうなった原因はあの土商の生徒だ。あの生徒のうちの誰かが、あるいはその全員が、おそらくは中学時代に千景をイジメていたという人物なのだろう。それで千景はことを大きくしたくなかったのだ、自分の存在をあの土商の生徒らに知られたくないがために。現に、こうして彼女らの姿も声も届かないところに来てからは千景の身体の緊張が少しばかりではあるが和らいだように思える。

 しかし、千景の呼吸は依然荒い。いじめっ子の存在を気にしなくてよくなったためか、彼女はさらに大きく息を吸い込んでは苦しそうに喘ぎ続ける。

 たしか過呼吸は体内の酸素と二酸化炭素のバランスが崩れることで息苦しさを感じ、その状態を回復させようと呼吸を繰り返すことでさらに息苦しさを感じる悪循環に陥るとテレビ番組かなにかで聞いたことがある。そして、そのバランスを整えるために紙袋に向かって息を吐くという処置を施すということも。だが、そのような事態に都合の良い代物は持ち合わせていないし、ざっと見渡した限り辺りに使えそうなものもない。とにかく呼気が逃げないようにすることはできないだろうか。私は彼女の腕を取り、袖を口に当てがわせるのはどうだろうかと思いつく。密閉にはほど遠いため気休めにしかならないかもしれないが、なにもしないよりマシかもしれない。しかし、彼女の右手は私の服の裾を堅く掴んだままだ。それならばと左手を動かそうにも身体の下になって上手く動かすことができない。彼女の苦しそうな表情と呼吸の音が私を冷静な判断から遠ざける。たかが過呼吸、されど過呼吸。今までこのような状況に立ち会ったことのない私はすっかりパニックに陥っていた。このままでは彼女は死んでしまうのではないかと。そうして正常な判断ができなくなっていた私はある思い付きをする。私自身が紙袋の役目をすれば良いのではないかと。


「千景……ごめん……!」


 私はそう言うと、虚空に向かって喘ぐ彼女の唇に自らの唇を重ねて蓋をした。彼女は一瞬、驚いた表情をして呼吸を止めた。彼女もなにが起きたのかよくわからないといった表情で呼吸が再開される。彼女の吐息が私の口腔を満たすのがわかった。浅い呼吸が何度か続いた後、再び一瞬だけ呼吸が止まり、続いて先程よりも少しだけゆっくりとした呼吸に変わる。そして、一度激しく咳き込んだ後深く息を吐いた。平時に比べたら呼吸はまだ乱れているものの、幾らか落ち着いたように見える。


「はぁ……はぁ……、ごめんなさい。私、また迷惑をかけて……」


 そう言う彼女の顔色が徐々に血の気を取り戻すのを見て私は胸を撫で下ろす。だが、彼女を助けようとする一心とはいえ、私はとんでもないことをしでかしてしまった。


「いや……、謝るのは私の方だよ。どうしたらいいかわかんなくて……ごめん」


 彼女は思い出したかのように顔を赤らめて俯く。それと同時に不誠実ながら彼女の柔らかな唇の感触を思い出す。当然ながら私だって初めてなのだ。千景の手前平静を装ってはいるが、私の情緒は崩壊しそうだ。想い出のファーストキスのシチュエーションが“女装して女友達として勉強を教えていた相手が過呼吸に陥ったため、それを助けようとした”はさすがに誰からも共感を得られないだろう。


 その後、私たちは土商の生徒らからずっと離れたその席に空いている席から椅子を一脚持ってきて勉強を再開した。一つの机を二人で共有しているため、先程よりも距離が近い。そうでなくとも、あんなことをした後で少しよそよそしい雰囲気の中で、二人ともいつも以上に身に入らなかったのは言うまでもない。


 後になって気がついたのは、せっかく専門書がそこらじゅうに並んでいるのだから、過呼吸の応急処置もその知見を頼ればよかったということだ。私は合間に医学のコーナーを物色し、有識者にしか読み解けなさそうな分厚い専門書の並びの横に、私のような素人でも理解できそうな家庭医療について記された本を見つけた。それによると、どうやら最近では紙袋による処置は本当に酸素が必要になった際に得られない危険性があるとかなんとかでお勧めしていないようだ。結果的に千景が回復したからよかったが、素人の浅知恵の恐ろしさを突きつけられた。なお、当然ながら応急処置の中に接吻の二文字は見つけられなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る