第14-1話 寒椿(前編)

 二ツ谷駅に直結する駅ビル『focus』の前を通り過ぎて西へ歩を進めると、総合文化施設『アトラス』が右手に見えてくる。その一階のフロアは図書館になっており、期末考査のシーズンは高校生でごった返す。今の時期、期末考査にはまだまだ先だが、大学受験を控えた3年生が最後の追い込みのために利用しているのか、空いている席はそれほど多くはなかった。奥の方で連続して2席空いている机があったため、私と千景はそこに腰を降ろした。


「それじゃあ、今日は数学からね。えーと、こないだはどこまでやったんだっけ?」


 彼女に勉強を教えるようになって二週間が経過していた。二人の都合が合った日に、こうして図書館で落ち合っては彼女の講師を務める。当然、報酬は発生しないが、そもそもこれは私の罪滅ぼしから派生したものだ。それに、人に教えるということは教える側はより深く理解している必要があり、私にとってはちょうど良い復習にもなった。


 最初に彼女に勉強を教えた日、私は彼女の習熟度に面食らった。随分と初期の段階で既に理解が追いついていないのだ。彼女からしたらなにがわからないのかわからないといったところだろう。

 そこで私はまず数学、そして次点で化学の勉強を優先させることを提案した。この二つの科目、特に数学においては、前単元の内容を理解していないと次の単元の内容を理解できない。彼女が理解できていない単元まで遡って習熟させる必要がある。逆に、他の科目の場合、一つの単元が苦手でも他の単元でカバーできるという可能性がある。授業に出てさえいれば、この二科目ほど他の生徒と差はつかないはずだ。


 千景は三角関数のページを開く。この単元は私も授業中にちょっとばかり夢の世界へ旅立っていたら、次に目が覚めたときに教師の言っている言葉が全く理解出来なくなっていた記憶がある。


「このsinθってやつは半径が1の円の中で原点から適当な角度で伸ばしていって、この円とぶつかったときのY座標ね。cosθはそれのX座標で……」


「ん……どうして半径が1なんですか……?」


「例えばさ、この図形のここの長さって言われたらどうする?」


 私はノートの空いたスペースに適当な図形を描き、辺と角度に文字数を与える。千景はそれを見てううんと唸っている。


「ほら、ここに三角形があるでしょ?ここの長さがrってなってるからr×sinAで出せるわけ。さっきのはあくまで半径が1あたりの比率……1×sinθってこと。だからこれにこの長さをかけてやるだけ。こういう風に三角形を見つけられればどんな長さも求められますよーってこと」


「あ……」


 千景は納得したような素振りを見せる。


「はい、それじゃ次のページにある問題を解いてみて」


 私は教科書の練習問題欄を指し示すと千景はこくりと頷いて問題を解き始めた。私はそんな彼女を横目に手を頭の後ろで組んで宙を仰ぐ。私たちの座っている席から右斜め方向にある窓から外の景色を覗く。植込みの椿の葉に付着した雪が一度融け、枝を伝ううちに再び凍る。その向こうではちらちらと軽く乾いた雪が北風に流されてゆく。

 正直、今はこうやって“勉強を教える”という行為を介してコミュニケーションらしきものをとれてはいる。しかし、いざ勉強以外のことでコミュニケーションを図ってみると、彼女の考えていることがわからない、話題を引き出すことができないと、てんで駄目だった。

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