第9-3話 夢幻(後編)
「ありがとうございました、またお越しくださいませ!」
快活な店員の定型句を尻目に店を出る。すっかり冷え込んだ夜の空気は二人の吐息を白く染める。
「結構話し込んじゃったね、時間は大丈夫?」
「あ、うん。麻美こそ、お家の人に怒られたりしない?」
「ま、友達と一緒だって言ってあるし大丈夫でしょ」
麻美はわざとらしく人差し指を立ててこちらにウィンクしてみせる。今日で確信したことだが、麻美は割とこうやって敢えてダサいと思われる仕草をしておちゃらけることが好きなようだ。そして、これもまた、私や聡子の前でしか見せないという彼女の一側面なのかもしれない。
人通りの少なくなった歩道をゆっくりと歩く。そろそろ方向的に麻美と別れる丁字路に差し掛かるところだ。日中あれだけ交通量のあった車道も、忘年会帰りのサラリーマンを乗せたタクシーがたまに行き交う以外にはほとんど目にしなくなった。夜の静けさも相まってか急に世界に二人だけ取り残されたような感覚になる。それと同時に、ここで別れたが最後、もう二度と会えなくなってしまうような、そんな感覚に襲われる。
「今日はさ、色々聞いてくれてありがとう。やっぱりルナ相手だとなんでも話しちゃうわ」
そう言って微笑む彼女の姿がまた、夢に見た彼女の姿と重なる。ああそうか、度々フラッシュバックするこの光景、私はあの夢を見た時点で既に彼女のことを好きになっていたのか。彼女ともっと一緒にいたい。先程襲われた奇妙な感覚も、余計なノイズを取り除いていけばその気持ちに帰結する。今日一日感じていた高揚感も、彼女に恋人がいないとわかって得た安堵も、全ては彼女に対する恋心に起因していたのだと。こんな単純なことに、当の本人と一日デートし終わる頃まで気付かない己の鈍感さを嘆くとともに、生涯無縁だと思っていた恋愛感情というものに触れることができたことに一抹の嬉しさを感じる。
しかし、それと時を同じくして気付いてしまう。この恋は始まる前から破綻していることに。私が彼女と接していられるのは、私が白中ルナであるが故だ。彼女が白中ルナを同性だと思っている限り恋愛には発展しないだろうし、白中ルナの正体が本当は冴えない一男子高校生だとバレた暁には、この関係性そのものが終焉を迎えるだろう。それでも、今は考えることを放棄してこの甘美な夢の続きを見ていたかった。
夜が更け暗さを増した空には、冬の澄んだ空気で星々が明るく見える。星を見るのは好きだが、いつもそれと同時に何故かもの哀しさを覚える。それが今日に限って感じないのは好きな人と同じ景色を共有しているからだろうか。私は改めて麻美に向き直って言う。
「麻美、今日はめちゃくちゃ楽しかった。それにぶっちゃけた話も聞かせてくれて嬉しかった。それで……それでさ……また今度、こうやって遊びに行けたらなぁ……って」
なんのことはない、ともすれば社交辞令にさえなり得る、ごく普通の次回のお誘いにこんなにも気力を要するとは。さすがに様子が変だと思われたのか、麻美はポカンとした表情をしている。
「ああ、ごめん……! 変だよねいきなりこんな……! って、わっ……」
瞬間、頭が真っ白になった。なにが起きたのか理解が追いつかなかった。いや、状況を把握してもなお、脳の処理が追いつかなかったのかもしれない。なぜなら、あろうことか麻美が抱きついてきたからだ。コート越しにもわかる彼女の華奢な肢体が、慎ましやかな胸部が、私の身体に密着する。
「あ……麻美……!?」
「ああもうっ……! ズルいよルナは。そんな顔されたら……離したくなくなるじゃん……」
彼女の吐息が首筋に当たる。その呼吸に合わせた横隔膜の拡縮で、身体はより密着しては少し遠ざかるのを繰り返す。私の体温は身を寄せ合ったことによる効果以上に急上昇する。心臓は早鐘を打ち麻美にまで聞こえてしまいそうだ。
「……たまにわからなくなる。ルナが本当は現実の存在じゃないんじゃないかって。おかしいよね、ちゃんとここにいるのにね。馬鹿なこと言ってるのはわかってる。でも、ルナのことたまに幻かなんかじゃないかって思うことがあるの。こうやって当たり前に遊んだ次の日には跡形もなくいなくなってそうな……。だから……だから、そんな、今にも消えてしまいそうな顔しないでよ……」
冷たく乾いた一陣の風が吹いた。身体の熱さとは対照的に顔が急激に冷却されるのを感じる。
限界だなと、いい加減夢から覚める頃合だと察した。初めて好意を抱いた異性にそんなことを言われてまで嘘を突き通せる自信はないし、良心の呵責も限界を迎えそうだ。
「……ねぇ麻美、今度会うときは私の話を聞いてほしい。今まで自分の中でも整理がつかなくて言えなかったことがたくさんあるの。それを話したら、もしかしたら麻美は私のことを嫌いになるかもしれない。でも、私は麻美と……友達でいたいから」
私はそう笑って麻美に別れを告げる。別れ際の一挙手一投足に白中ルナならばこうするだろうという行動を惜しみなく所作の端々に巡らせて。彼女の予感は当たっている。次に会うのを最後に白中ルナは彼女の前から姿を消すことになるだろうから。
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