第8-1話 予兆(前編)


 アッシュブラウンの長い髪が風に揺れる。左側の髪の毛を耳に掛けると、その端正な横顔が明らかになる。その眼差しは真っ直ぐ進行方向を見ていると思ったら、急に振り向いて一瞬不思議そうな表情をした後、柔らかく微笑んだ。


「……今のは……麻美?」


 いつの間に眠ってしまったのだろうか。自室のベッドで仰向けになり、虚空を眺める。ここ数日の白中ルナとして過ごした日々を思い出していた。柊野翠として生活していたら、まず交流を持つことはなかったであろう二人の少女。クラスの中心的存在であり、絶大な発言力を持ちながらも、根は真面目で頭脳明晰な聡子。アイドル顔負けのルックスながら、嫌味がなく飄々とした性格の麻美。彼女たちと過ごす時間は、モノクロだった私の高校生活に鮮やかな彩りをもたらしてくれた。

 いや、正確には“私の”ではない。充実しているのは架空の人物、白中ルナの高校生活だ。結局のところ、柊野翠の高校生活は何も変わってなどいない。彼女たちとの繋がりは虚飾で塗り固めた脆弱な地盤の上に成り立っている。今はまだ出会って間もないためになんとかなっているかもしれないが、こんな嘘がいつまでも続くとは思えない。最初に彼女たちと会ったときに柊野翠だとバレてしまっていた方が良かったのだろうか。だが、もしあの時点で柊野翠だとバレていたら、こんな風に一高校生として彼女らと交友を持てていなかっただろう。


 そんなことを考えていると、部屋のドアが乱暴に開け放たれた。


「アニキー! 勉強教えて欲しいんだけど……ってごめん寝てた?」


 杏の通る声が頭に響く。同じ兄妹でいてどうしてこいつはこんなにも無邪気に振る舞えるのだろう。歳下だからそう思えるというのもあるだろうが、それにしたって私が杏の歳くらいの頃にはもうこんな風には振る舞えなかった。まあそれは私がまともに友だちも作らないでクラスカーストの最底辺にいたからということもあるが。


「ああ……別にいいよ、さっき起きたから。それよりお前ノックしろって……」


 私はゆっくりと身体を起こしながら小言を言うが、そんなことに耳を貸す素振りさえ見せず杏は数学の問題集を広げる。


「ほら! この問題なんだけどさぁ、ここの角度がなんで30度になるの? ……っていうかさ、こんなんするより分度器で測ったら一発じゃん! あ、30度なら三角定規でもいっか。テスト中も出しておけるし……」


 悪知恵ばかり逞しくなるのは強かに生きている証拠だと前向きに捉えるべきだろうか。私は呆れ笑いしながら彼女を諌める。


「そいつは最後の手段だ。だいたいこの問題、途中式書かされるから答えだけ合ってても点数もらえないじゃん。……ええとこれは……こことここが同じ角度で、こことここ足して180度になるから……」


 私が説明を始めると、杏はさっきまでの騒がしさが嘘であるかのように、静かに私の言葉に耳を傾けている。わかったフリをするタイプではないため、文節のタイミングで時折打たれる相槌は、私の説明を理解できていることを示す指標となった。


「……アニキさ……なんか変わった……?」


 ひと通り説明が終わった後、唐突に杏は尋ねた。質問があるとすれば解法に対するものだと思っていたので、その質問の意図がわからず間の抜けた返答をする。


「……え? 変わったってなにが?」


「うーん、なんていうか雰囲気? 丸くなったっていうか……あ! もしかして彼女できたから?」


 杏の推理に私は思わず噎せ返る。忘れていたが、そう言えば杏も私に彼女ができたと思い込んでいたのだった。


「知らないよ。ほら、それより次の問題は?」


 私は少し気恥しかったのと、あまり立ち入った質問をされて実の家族にまで嘘を重ねることを避けたかったため、ぶっきらぼうにそう答えるだけに留め、すぐに話を勉強の方に戻す。


「えー、いいじゃん! ちょっとくらい教えてくれたって!」


 杏が口を尖らせる。女子の方が精神的な成長が早いと言うが、ついこの間まで小学生だった杏にそんなことを言われるとは思わなかった。そもそも彼女自体できてなどいないのだが、白中ルナとして過ごし始めるようになってからというもの、その中で得られた新たな気づきや出会いが、私の考え方に影響を及ぼしているのではないかということは薄々感じていた。ただ、それを妹から指摘されるとは思わなかったのだ。

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