第7-2話 明暗(後編)

 三人で歌うことに楽しみを見出した私たちは、その後数時間にわたって歌い続けた。順番に一人ずつローテーションを回して歌っていたときのように休憩時間がないため、それが標準の一人カラオケばかりしていた私はまだしも、ほかの二人は終わる頃には大分声が枯れ始めていた。


 時刻は午後8時を回り、すっかり夜の帳が辺りを覆っていた。聡子の家は駅南部、麻美の家は駅西部のようだが、どちらも線路を挟んで南側に位置することから、店を出たところで二人と別れることになった。というのも、白中ルナの居住地は二ツ谷区北側に位置する飯川区との区境周辺ということにしているため、駅北側に出る跨線橋に繋がるこの道で二人と帰路を違えておかないと不自然だからだ。帰りの電車に乗らなければならないので、いずれ二ツ谷駅に向かうことになるのだが、出発時刻まではまだ時間があるため、私はそのまま北側から周り道して駅に向かうことにした。飯川区に至る駅の北側は普段あまり利用しないこともあってほとんど土地勘がないため、どうせならこの機会に自身の足で歩いておこう。


 駅の片側が栄えているのに対してもう一方が栄えていないというのはままあることではある。この二ツ谷駅もその例に漏れず、北側は南側に比べるとあまり栄えていないというのは、普段駅から北口側を目にしていてなんとなくわかっていた。駅直結のロータリーや付近の分譲住宅地はかなり新しく、整備されていないという訳ではないが、南口側と比べると商業施設が極端に少ない。それ故か人通りや街灯も南側と比べると少なく、今歩いているこの路地もよく言えば閑静だが、悪く言えば少し物寂しい雰囲気が漂っている。もちろん、我が地元の河澄町に比べればずっと都会ではあるのだが。


 しばらく路地を歩いていると、後ろから息を切らして誰かが小走りしている音が聞こえてきた。方向的には同じく駅に向かうようにも思えたが、私の乗る路線はまだ出発まで時間があるため、別の路線の電車は出発時刻が近いのだろうか。そんなことを呑気に考えていると、その音は私のすぐ後ろで止まり、息も絶え絶えに言った。


「あ……あの……助けて……ください……」


 私は何事かとギョッとして、消え入りそうなその声の方を振り向く。長い前髪に隠れて暗い路地では顔が良く見えないが、震えた手と唇から何かに怯えている様子であることは確かだった。少なくとも、電車に乗り遅れそうで走っていた訳ではないことはわかる。


「どうしたんですか?」


 私はとりあえず彼女をこれ以上怖がらせないようにできる限り穏やかな口調でそう尋ねた。制服を着用しているところを見ると、私と同年代くらいの女子高生であることがわかる。


「……つ……尾けられてて……!」


 彼女が振り絞った言葉に再びギョッとした。彼女は恐怖心からか完全に後ろを見れないではいるが、首を振って指し示した方向に確かに人の気配を感じる。ストーカーというやつか。その影は今しがたこの路地に差し掛かったように見えるが、おそらく彼女が急に走り出したために今は距離が空いているのだろう。


 後をつけてくるタイプの典型的なストーカーに実際に遭遇するのは初めてだ。河澄町では田舎ゆえの相互監視と過干渉が抑止力として働いているのか、実害のない変質者の噂を耳にすることはあれ、特定の個人に牙を向くストーカーの噂は聞いたことがなく、こういった状況下における最適解はわからなかった。正面切って捕まえて、警察に突き出すのも一つの手段なのかもしれないが、相手の得体が知れない以上、それは悪手だろう。もし相手が屈強な男性であれば当然勝ち目はないし、一人だけではないかもしれない。今は彼女につきまとうことで満足しているのかもしれないが、はっきりと敵意を向けられた場合、逆上してどんな手段に応じるかわかったものではない。思考の末に私は一つの提案を思いつき、彼女に耳打ちする。


「……今から私があなたの友だちのフリをするから、適当に話合わせて……!」


 彼女が小さく頷くのを確認するかしないかのうちに、私はすぐ近くの彼女に伝えるにはやや大きすぎる声を出して言う。


「『わぁ、めっちゃ久しぶりじゃん! 元気にしてた? え、今から帰るとこ? じゃあさ、途中まで一緒に帰ろうよ!』」


 脳裏に聡子の顔が浮かぶ。彼女ならこういうときにどういう言葉を選ぶだろうか?柊野翠として接していた頃はただの姦しいクラスメイトとしか思っていなかったが、こういう場面では彼女のそのコミュニケーションの仕方が参考になる。私はテンションを無理やり上げて彼女に話しかけた。実際に彼女の家がどこなのかはわからないが、走って来た方角的に少なくとも駅は通り道だろうし、とりあえず駅まで行けば人に紛れることも、交番に駆け込むこともできる。


「で、でも、あなたの家は……? えと、あの……私の家は……」


 馬鹿正直に帰りのルートを気にする彼女。話の流れで自宅の在処を口外しかねなかったため、彼女を遮るように、唇に人差し指を当てて見せながら食い気味に二の句を継ぐ。


「『わかってるって、私もちょっとこっち方面に用事があるから気にしないで! それよりさ、最近学校はどう?』」


「………………あ、えっと……」


 彼女が俯き言葉に詰まる。しまった、私が言うのもなんだが、いや、私だからこそわかる返答に窮するこの感じ。この少女、おそらくはあまり学校生活に馴染めていないのではなかろうか。


「わ、私はさぁ……クラスで浮いちゃってダメだね! みんなに合わせるのが面倒くさくなっちゃってさ、あはは……」


 フォローするためとはいえ、自分で言っていて悲しくなってくる。白中ルナとして接しているが、それは柊野翠にとっての紛れもない現実であった。私は間髪を容れず自分に言い聞かせるように言葉を続ける。


「『だからさ、今度どっか遊びに行こうよ。ほら、学校の友達だけが全てじゃないんだしさ』」


 彼女の方を見るフリをしながら横目でつけてくる影を確認する。先程までよりその距離は離れたような気がする。駅に近づいてきたことで人通りや街灯が増えてきたためか、はたまた、気弱そうな少女と思っていたのに、まるで正反対の派手な見た目の不良女と交友があったことに気を損ねたのか、いずれにしてもここまで来たらこっちのものだ。私はその後も他愛のない話題を絞り出す。聡子はいつもクラスでどんな話をしていたんだったか。昨夜のドラマの話、推しているアーティストの新曲の話、美味しいスイーツを見つけた話。恐怖心からかもともとそうなのか、いまいち反応の薄い彼女に対し独り言のような会話を繰り広げる。そうこうしている間に駅北口が二人の視界に飛び込んできた。


「ふぅ……もうついて来なそうだな。さすがに駅の中じゃ下手なことできないだろ」


 完全に後ろを振り返り、目を凝らして辺りを見渡しても、それらしい怪しい人影は見当たらない。


「あ……あの……、すみませんでした……」


 彼女がおずおずと謝る。前髪の間から見え隠れするその瞳は、ストーカーという明確な脅威が去った今もなにかに怯えているような、そんな印象を受けた。


「いや、あなたが謝ることじゃ……」


 悪いのはあなたではない、こういう時は謝罪ではなく感謝だと、どこかのドラマで聞いたような定型文が浮かんだが、言いかけて途中で口を噤んだ。なんとなくだが、なにを言っても説教臭くなるというか、押し付けがましくなってしまいそうだと思ったからだ。

 私は念のため、北口側にある交番まで彼女を連れて行くことにした。そこでは一人の警官が暇そうになにかの書類を眺めていた。比較的若年と思われるその警官は、私たちが入って来るのを見ると、眺めていた書類を机上に置いて尋ねた。


「どうかされましたか?」


 彼は事務的な声色でそう尋ねる。


「あの、どうやらこのコがストーカー被害に遭っているみたいなんです。さっきも誰かに尾けられてたみたいで……」


 私が説明すると、警官はやや訝しむような表情でさらに尋ねる。


「君はその子の友達かい? 君もそのストーカーを目撃した……と?」


「……いえ、私は彼女とは初対面です……。私が駅に向かって歩いているときに彼女が後ろから走ってきて助けを求められたんです。そのときは結構距離があって顔は見えなかったけど……、でもたしかに誰かが後を尾けて来るような気配はありました!」


 警官からの聴取とはいえ、先程の彼女の反応を見た後で“彼女と友達か”という質問を否定するのは心が傷んだ。


「君は……、なにか被害を受けたりはしたのかい?」


 警官が今度は彼女に尋ねる。彼に悪意はないのだろうが、私はその聴き方に苛立ちを覚える。被害ならもう受けているだろう。尾けられ、精神的恐怖を与えられていると今しがた説明したばかりではないか。心的外傷を受けているであろう相手に対してもう少し言い方というものがあるだろうに。


「あ……いえ……直接的なことは……」


 消え入るような声で答える彼女の様子を見て、私の中のなにかに火が着く。


「あの……! そういう聴き方ってないんじゃないですか!? 本当はなにかされてても答えにくいでしょ! っていうか、尾けられて怖い目に遭ってるんだからもう十分被害を受けてるじゃん! なんとかならないんですか?」


 私の声が交番に響く。私はさっき出会ったばかりのこの少女のために何故声を荒げているのだろう。自身の怒りの感情を吐露するのは数年以来のことだった。すると、警官は先程よりも難しい顔をして答える。


「ああ、デリカシーのない聴き方をして不快にさせてしまったのなら失礼。だけどわかってほしい。ストーカー被害というのは扱いが難しくて、例えば直接的な接触があったとか、物を壊されたとか盗まれたみたいな実害がなければ我々も中々動けないんだ。法律がそう規定してる」


 おそらく彼の言い分は正論なのだろう。だが、警察は用心棒でも心理カウンセラーでもないと言いたげな彼にまた苛立ちを覚え、反論しようとする私を制するかのように私の携帯電話が鳴る。さっきまでカラオケにいたため、マナーモードを解除して音量を大きく設定していた着信音が室内に鳴り響く。画面を見ると母親からの着信だった。私は矛を収めて一旦交番の外に出てから電話に出る。


「翠、あんた今日も遅いの? 友達と遊ぶのはいいけど最近遅い日多くない? なんか変なことに巻き込まれてないでしょうね? もうご飯できるところなんだけど…」


 母親の勘というものは恐ろしいほどに的中するものだと感心した。直接言われたわけではないが近くで見ている限り、私に友達ができたらしいのを見て一番喜んでいる様子だったのも母親だ。今まさに犯罪行為に巻き込まれようとしていたところで、ストーカーを撒いて交番にいるとは言えなかった。


「……ああ、ごめん。次の電車で帰るところだから、先に食べてていいよ」


 家族に心配をかけたくなかった私はそう言って電話を切った。警官の言い分に腹は立ったが、この着信で出鼻を挫かれたことで少し冷静になった。ここで言い合いをしても仕方がない。自分から交番に出向いておいてなんだが、事情聴取の末に私の正体に言及されてしまう前にお暇したい。


「わかりました……それなら、せめてそのコの保護者が迎えに来るまでここで匿ってください。私はもう……電車の時間なので失礼します」


 私はそう言い残して交番を後にすると駅のホームへ向かった。

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