第4-1話 X-day(前編)

 12月に入り一週間が過ぎた頃、放射冷却により草木に着いた霜が、昇り始めた太陽に照らされて散りばめられたガラスのように輝いていた。そろそろ雪がちらつくのも珍しくない季節になってくる。コーディネートに合うマフラーも買っておけば良かったと若干の後悔を抱きながら洗面台へ向かう。今日は亮介と約束したX-dayだ。今日のために私はこの二週間、未知の分野へ足を踏み入れ続けてきた。


 今日は、杏が部活で他校との練習試合があるようで、両親ともにその付き添いのため朝早くから出発したようだった。都合の良いことに家には私一人であり、堂々と身支度が出来るというものだ。カラーコンタクトを装着し、ビューラーで持ち上げたまつ毛にマスカラを施す。アイラインで大きく目を囲い、アースカラーのアイシャドウを少しのせる。ベースとなる技術はギャルメイクだが、私はそれに改良を加え、“アニメキャラを現実に落とし込んだら”という観点で私の理想像を完成させていく。

 オタク故に造形美への拘りは強く、半ばプラモデルを仕上げている気分でもあったが、この二週間で着実に技術は向上していた。そうして出来上がった『白中ルナ』はこれまでにない最高傑作となった。とはいえ、実際にこの格好で外出するのには勇気がいる。何度も玄関に向かっては鏡を確認しに洗面台に戻るということを繰り返す。家族で出かける際、母や杏が出発を前によく同じようなことをしていて、そのときはもう少し早くならないものかとイライラしたものだったが、今となってはその気持ちも理解できるかもしれない。私は玄関と洗面台を往復する儀式を5回ほど繰り返した後、漸く意を決して外の世界へと足を踏み出した。


 河澄駅までは歩いて10分とない。高校通学のために駅を利用するようになるずっと前の幼少の頃から見慣れた景色だが、ルナに扮した今日はどこかいつもとは異なって見えた。今この瞬間、私の妄想の結晶である『白中ルナ』が、それも自分自身の彼女としてこの世界に存在しているのだ。駅までの道中にある農協の事務所や個人商店の窓ガラスに映る自身の姿を見ては感無量に浸る。

 毎朝の通学ラッシュの時間とは異なり、休日のこの時間、駅の利用客はそれほど多くなく、また客層も老若男女バラバラだった。乗車率は私が乗った時点でギリギリ座れるか座れないか程度で、わざわざ空いている席を探すのも面倒だったため、座るのは早々に諦める。すると間もなくして、同じ車両に乗っている乗客のうち複数名からの視線を感じる気がした。それが誰でどういう意図をもって見ているのかはわからないが、不審に思われているのかもしれないと不安になる。やはり他人から見たら違和感は拭えないのだろうか。車窓に映る自信のなさそうな表情を浮かべる自身の姿を見てハッとする。違う、彼女ルナはこんな表情は浮かべない。凛として堂々としていて、それでいてどこか儚げで。憧憬のハード的な具現化には成功したのだ。足りないのはソフト面における同調だ。私は四肢の末端へ神経を張り巡らせ、無意識的な動作さえ意識化に置くように刻苦する。脳内に描かれた自己のイメージを一つ一つ踏みしめるように。


 車内アナウンスが二ツ谷駅への到着を告げる。走っている最中は永遠にも感じられる時間だったのに、到着してみると30秒と経っていないような不思議な感覚に陥る。私はいつものように柊野翠の通学用定期で改札を通り抜ける。さすがに週末の二ツ谷駅は人でごった返している。クリスマス前ということもあってどこもかしこもカップルだらけだ。ああ、そう言えばあの日、ことの発端となった二週間前もこんな感じでカップルがひしめいていたんだったか。それがなんだか自身が世界から爪弾きにされているような感じがして、妙にむしゃくしゃして、つっかかってくる亮介と喧嘩になって、こんな珍妙な約束まで取り付けられて。そうしてこの二週間を振り返っていると、ある重大な問題に気付く。どうしてこんな初歩的なことに今まで気付かなかったんだろう。まさか約束の日の、それも約束した時間の直前まで気づかないなんて。私は自分の愚かさを呪う。そう、亮介との約束は互いに彼女を紹介すること。だが、今は私自身が彼女になっているため、彼女を紹介する“私”がいないのだ。


「ねぇキミ一人? よかったら俺らと遊ばない?」


 頭を抱えていると、そう声をかけられた。今どきこんな古典的なナンパがあるのだろうかと振り向いて驚く。そこにいたのは私の中学時代の同級生、入船渡と菅原由伸だ。二人とも、中学のときはよく亮介とつるんでいたのを覚えている。この二人は亮介ほど私に明確な敵意を向けてくることはなかったが、彼とつるんでいる以上、私との関係は到底良好と言えるものではなかった。私は咄嗟になんでお前らがと言いそうになるのを抑える。彼らはどうやら私が柊野翠であることに気づいてはいないようだった。バレてもらっては困るわけだが、中学からの同級生の目も欺けたことは一つの自信になった。


「俺ら今日ダチに呼び出されててさ、その用事自体はすぐ終わるっぽいんだけど、その後暇なんだよ」


 そう説明する渡の言葉になにか引っかかりを感じる。彼は決して頭が良いとは言えない。歯に衣着せずに表現すれば馬鹿ではあったが、良く言えば嘘はつけないタイプだ。その言葉に偽りはないのだろう。では、その“ダチ"とは“誰”で“いつ”、“どこに”呼び出されたのだろう。事情を聞き出すには都合の良い相手だ。


「えーとね、私も人に会う約束があるの。あなた達の約束っていうのはいつ、どこにしているの?」


 ダメ元で声をかけたのだろう。まともに応じられたことに少し驚いた様子を見せるが、特に疑うことはなく渡が答える。


「ああ、俺らはこの後……12時に『focus』だっけ? あ、でも俺らのはホントすぐ終わるからさ!」


 『focus』は私が二週間前に亮介と鉢合わせた駅ビルだ。そして今日の正午、私が亮介と会う約束をしている場所でもある。


「でもさ、亮介のやつもわかんねーよな。『面白いものがあるから来い』って。しかも肝心のあいつはその後彼女と過ごすんだろ、人を呼びつけておいてどうかと思うぜ」


 由伸が愚痴っぽく渡の問いかけに答える。なるほど、事情が見えてきたぞ。亮介のことだ、私を笑い者にしたくてギャラリーを呼んだのだろう。渡と由伸はその役にうってつけだったというわけだ。


「奇遇ね、私もちょうどそこに用事があったの。もうすぐ約束の時間のようだし、一緒にいかない?」


 二人は一度顔を見合わせた後、口許を緩ませて悦ぶ。それにしても、柊野翠に対する態度とは雲泥の差であることに皮肉めいた感情を抱かずにはいられなかった。

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