3-3

 藤原さんは僕の前に座った。

「よかった」

 彼女はそう呟いた。

 僕は何も言えずに彼女の表情をずっと見つめていた。彼女は、とても優しそうに僕の顔を見ていた。見たこともないような顔だった。その顔は僕の心の中に染み渡っていった。

「あなた−駿河くんがそんなことをする人とは思っていなかったから」

 藤原さんの口からこぼれた自分の名前がまるで自分の名前のように感じる事ができなかった。僕はまだ何も話せずにいる。

「あのね、私もなんの根拠もなく駿河くんを庇ったわけじゃないの。ちゃんと自分なりの根拠があった。私が授業終わりの会話について愚痴を言った日のこと覚えている?」

 僕は、藤原さんの言葉を素直に頷く。

「次私が出勤した日、香山さんがとても機嫌よく帰ったのを見たの。その時おかしいなぁと思って。何かあるかもしれないって思ったの。だからね、香山さんと同じクラスの別の生徒に香山さんについて聞いたの。香山さんってどんな子なのって。そしたらね、前の彼氏が音を上げるぐらい独占欲が強い子らしくてね、それで分かったの。よく見たら、駿河くんは怯えているし、香山のであればなんは機嫌がいい。あぁ、これは、香山さんは駿河くんを脅しているって。だから全ての行動が全部彼女の差金なんだって。そうやって駿河くんに逃げ道を失わせて自分のものにしようとしているんだって。彼女はね、プリンセスじゃないのよ。白雪姫に毒林檎を齧らせる魔女だったの。生徒を悪く言うつもりはないけどね。でも、それが私の分析ってところ。どう?意外とあっているでしょ?」

 藤原さんは嬉しそうに話をした。僕は、なんだか申し訳なくなった。

「ごめん」僕はぼそっと謝る。

「どうして謝るの?」

「君は僕を救ってくれた。僕は君のおかげでこのバイトを辞めないで済む。だから、謝らなくちゃいけない。迷惑をかけてしまったから」

 藤原さんは僕の顔を見て少し申し訳なさそうな顔をした。

「私はね、何にも正義感でやったわけじゃないの。結局のところ、これも自分のためなの」

「どう言うこと?」

 藤原さんは何か言い淀んでいた。言葉にしていいものなのか悩んでいるようだった。

「私はね、誰かのために行動するってできないの。何か、自分のためになるようにしないと」

 僕はそれを聞いて

「何か返した方がいい?できることならなんでもするけど」

「そう言うことじゃないの。あー、えー、なんかうまく話せなんだけどね」

 そう言って彼女は少し頬を赤らめた。

「私はね、あなた、駿河するがくんともう少し一緒に働きたいの」

「それは、どう言う?」

「言葉通りの意味。私は駿河くんとこのまま『はい、バイバイ』ってなりたくないってこと」

 僕は藤原さんが言っている事がうまく理解できなかった。

「結局ね、私は香山さんのことを魔女だって言ったけど、私だってそう変わらないのよ」

 僕は、藤原さんが言わんとすることが少しだけわかった。

「でもね、今すぐにどうこうしたい、って言うのはないの。だってそれは私の事情であって駿河くんの本当に願っていることじゃないかもしれないから」

 僕は、そう言って少し悲しそうにする彼女を見て

「そんなことない。僕も、藤原さんと一緒に働くの、好きだよ」

 と小っ恥ずかしいことを言ってしまった。

「そう」

 藤原さんは、そう言って少しだけ俯いた。僕はそんな彼女を見て何も言えなかった。

「それじゃ、私、この後授業あるから」

 そう言って、藤原さんは事務室を出て行った。

 また一人になった。僕はこの三十分ぐらいで起きたことを整理する。クビになりかけたけど、藤原さんに助けられて、なんだったら好意に似た何かを向けられていることが証明された。

 僕は、自分の足取りが不安定になっていることに気づいた。僕は、ちゃんとステップが踏めているのだろうか。転びそうになっていないだろうか。とりあえず休みたい、僕はそう思った。

 そうやって僕はまた一週間休暇を得た。


 この一週間、僕はこれといって何か進展はなかった。学校があったし、何かと溜まっているするべきことを丁寧に行なっていたら、一週間はあっという間に過ぎていった。

 次の月曜日、僕はアルバイトに復帰した。教室長も藤原さんも何もなかったかのように僕を迎え入れ、そうして同じように授業が始まった。二週間前と何も変わっていない。変わったことといえば、香山さんがいなくなったことぐらいだった。彼女は、結局塾を辞めてしまった。後日教室長から聞いた話だが、香山さん本人の嘘がバレて親御さんがこれ以上塾に通わせる事ができないと判断したとのこと教室長は「生徒が辞めると困るんだけどねぇ」と言いながら少し嬉しそうだった。僕も今のアルバイト先を辞めずに済んだのは嬉しかった。

 そうして何日か経った後、藤原さんからバイト終わりに食事に誘われた。僕は二つ返事で承知した。僕を助けてくれた恩人だ。断るはずがない。

 近くのファミリーレストランにきた僕たちはあの時の事務室のように向かい合わせで座った。あの時とは異なって机は大きいし、計画な音楽が流れている。

「でも、戻ってこられてよかった」

 と藤原さんは嬉しそうに言った。

「それは、藤原さんのおかげ。僕も、このバイト先辞めたくなかったからね。好きだから」

 僕はそう言いながらメニューを見る。ファミレスにだからそんな豪勢なものはないけれど、なんだかこうやって同期と仕事終わりにご飯に行くのは嬉しかった。

 そこからは取り止めのないことを話した。学校の話や僕が謹慎中の時の教室の話など。そんな話をしているときの藤原さんはとても楽しそうで、僕も楽しくなっていた。臭いセリフかもしれないけれど、ずっとこんな時間が続ければなぁとほんの少しだけ思ってしまった。

 二時間ほどいただろうか、夜も更けてきたので店を出ることにした。僕はお礼だと言って全額払いたいと言った。藤原さんはいい、と言ったけど、僕はお願いだから払わせてくれと言った。すると少しだけ照れながら、

「ありがとう」と藤原さんは言った。僕も少しだけ照れてしまった。

 藤原さんを家まで送ることにした。彼女は別に大丈夫だと言うけれど、夜が遅いし、と言うことで僕は押し切った。でも、結局のところ僕は藤原さんと一緒にいたかっただけだった。

 藤原さんの家までの帰り道、会話はあまりなかった。でも、僕は嫌な気分はしなかった。

 何分か歩いて、藤原さんが口を開いた。

「今日はありがとう」

「こちらこそだよ」

「それは、前、言ったじゃん。私のためだって」

「一緒に働きたい、ってやつ?」

「覚えてた?」

 藤原さんは少し恥ずかしそうに言った。

「僕は嬉しかったよ。そう言ってもらえて。なんだか、僕が僕である理由を感じられた」

「どう言うこと?」彼女は少し不思議そうだった。

「四月にさ、学校で有名な人が亡くなってしまったことを知っているよね」

「あの、完璧で有名な人でしょ、えーと」

宇野昴うのすばる

「そう、宇野くん。彼がどうしたの?」

「彼は僕の親友だったんだ」

 彼女は、少し俯いてしまった。

「別に悲しい話をしたいわけじゃないんだ。僕は、四月に大事な友達を失ってしまった。そして彼は、僕にあるお願いを残したんだ」

「お願い?」

「そう、それはね『ギャッツビーになってくれ』って言うものだった」

「どう言うこと?」

「僕は彼のことを『ギャッツビー』って読んでいたんだ。フィッツジェラルドの『華麗なるギャッツビー』の主人公さ」

「ごめんなさい、文学には疎くて」

 彼女は少し申し訳なさそうにする。

「別にいいよ。『華麗なるギャッツビー』に出てくるジェイ・ギャッツビーは金持ちのイケメンで非の打ち所がないんだ。でも、彼は恋愛がめっぽう下手でさ。結局のところ痴情のもつれから殺されてしまう。僕はそんな主人公の名前を彼のあだ名にしていたんだ。でも、彼はそれを気に入ってくれていたんだ。でもね、彼はそのギャッツビーでいなくてはいけないと思い込んで、そして」

 僕は苦しくなった。篠山が言った通り僕は彼を死へと追い込んでしまったんだ、そう思うと声が出なくなっていった。

「そして?」彼女は優しく続きを聞いてきた。

「そして、彼は自ら死んだんだ。ギャッツビーであるために」

「そう」

 彼女はそれだけ言った。僕の次の言葉を待っているようだった。

「死ぬ直前、僕に手紙をよこしていたんだ。死んだ二日後ぐらいに届いたよ。そこにはね、彼代わりに僕がギャッツビーになってくれと言うものだった。だから、僕は、彼の願いを叶えるために一生懸命なれないステップを踏み続けたんだ」

 彼女は黙って僕の話を聞いていた。

「そして、いろいろ考えて、失敗もした。僕は正直ギャツビーを演じ切れているのか分からない。でも、最近、どうでも良くなってきたんだ」

「どうして?」

「どうしてだろう。分からない。でも、僕は僕なりのステップを踏めているんじゃないかって思うんだ。それは歪で上手じゃないかもしれないけど、決してジェイ・ギャッツビーのように美しくはないかもしれないけれど、エキストラとしてはちゃんと踊れているんじゃないかって」

 彼女は何も言わずに聞いていた。その顔はとても優しかった。

「教室長に呼ばれたあの日、僕はとうとう足を踏み外したと思った。これまで不器用に踊ってきたツケが回ってきたと。でも、その踊りを君は否定しなかったんだよ。僕をステージから下ろさないでくれた。だから今、こうやって踊り続けていられる。それが君自身のためだったとしても、僕はすごく感謝しているんだ」

「そうなんだ」

 彼女はそう言って僕の方を見た。

「それならさ、その感謝のお礼としてさ、お願いしてもいい?」

 彼女はそう言いながら足元を見ていた。

「もちろん。僕が叶える事ができることであれば」

 僕は返事をする。

「それじゃあ」

 彼女は僕の目を見た。彼女は頬を赤らめていて辛そうだったけれど、綺麗な瞳で僕の顔をじっと見ていた。

「私と付き合ってくれない?」

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