2章

2-1

あの日から僕はなんだか調子が悪かった。いや、本当を言うと、彼が死んだ時からなのかもしれない。それでも、篠山と話したあの日から確実におかしくなったし、自分の中にあったシコリが大きくなって自分を苦しめていた。

「先生、どうしてそんな顔をしているんですか?」

「あぁ、ごめん、この問題できた?」

「はい!」

「それじゃあ、今度はこの問題を−」

本来なら、楽しんでしている塾講師のアルバイトも生徒に心配されるぐらい死んだ顔をしてやっていたらしい。

「そういや、先生って普段何しているんですか?」

「そんな質問する暇あったら問題解いていって」

僕はそんな生徒の興味を逸らすように進める。

「それじゃ、この問題問終わったら教えてくださいよ」

「分かった、分かった。ただでさえ、君進んでないんだから、集中して解く!」

いつもこうやって絡んでくる彼女は香山玲奈。高校生二年生にもなってまだ子供っぽいところがある。それでも問題を解くときや解説をしているときは真剣な顔をしながら真面目に聞いているので、勉強ができないということでもない。他の先生との会話もしっかりできているし、自分の時だけどうしてこんなにうるさくなるのはよくわからなかった。

その日の最後のコマが終わってもずっと話を続けていた。高校の男子がどうだこうだ、最近行ったカフェのケーキが美味しかったどうだ、一年先輩の恋愛模様など。自分にとってはどうでもいいし、なんだったら仕事を終えてパッと帰りたいと思っているのに、彼女が話をやめないので帰る事もできない。そして、こうやって香山と話しているとき、同期の講師である藤原純恋はムスッと顔をして僕を睨んでくるのだった。

―生徒がいるのに帰るのは憚れるもんな。ごめん…。

僕はそう思いながら香山の話を流していた。

結局授業が終わって三十分後ぐらいに香山は家に帰っていった。周りに残っていた先生に一通り謝って回る僕。藤原にももちろん謝った。

「別にいいんだけど。まさか香山さんとなにかあるわけないよね?」

藤原は僕に変な探りを入れてくる。

「そんなわけないじゃん。僕だって早く帰りたいんだ。でも、香山さんが話をするし、『おうちの人心配しない?』って聞いても大丈夫の一点張りだからさ」

「それでも強く言うのが先生ってもんじゃないの?」

「まぁ、そうなんだけどさ」

僕は帰りの準備をしながら、藤原に説教を受けていた。

―次の授業では香山さんに言わないとなぁ。

こうやって僕の悩みは増えていった。


藤原からの説教を受けた次の授業、僕は香山さんに他の先生を待たせてしまっているから、話をするにしても少しだけにしてほしい、とお願いした。香山さんはそれを聞いたときすごくショックを受けたように見えた。とてもシュンとしてしまい、今にも泣きそうな顔をしていた。

「そう、ですよね。気をつけますね」

僕は香山さんを傷つけてしまったような気がした。

「でも、私は先生とお話をするのが好きなんですよね」

僕は、何も言えなかった。

「今日は帰りますね」

香山さんはいつもより早く帰っていった。その日、藤原はいなかった。


その次の授業、香山さんの授業を持つことが怖かった。もしかしたら休むんじゃないか、僕の授業にNGが出てしまったんじゃないか、でも、それは杞憂だった。香山さんはいつもの笑顔で教室にやってきた。

その日は普通に授業をしていた。香山さんは真剣に授業を聞いていつもより二倍以上のスピードで問題集を解き進め、そしてその全てを正解していった。正直僕はいらないんじゃないかと思えるほどだった。

そして授業が終わったとき、一つの封筒を渡された。

「他の先生に見えないようにしてください」

香山さんはコソッと言った。

「え?」

「教室長さんに見つからないようにしてくださいね」

そう言って香山さんは帰っていった。

僕はその紙をポケットに突っ込んで、もう一人の生徒の対応をした。その生徒は幸い見ていないようだった。

―これは、まずい。

本心ではそう思っていた。でも、それでも、気になって仕方なかった。これは何なのか。この封筒の中には何が入っているのか。封筒は一瞬しか見ていないからどんな形だったかは覚えていない。今日は幸いにも藤原はいない。変に思われないで済む。あいつは変に感がいいからな。

僕はすぐさま家に帰り、香山さんからもらった封筒の中身を開けた。中にはLINEのQRコードと一通の手紙が入っていた。


先生へ

いきなりこのようなことをして本当にごめんなさい。でも、先生とお話ができないと言うのはとても寂しくて、でも先生の状況を考えると教室でわがままを言うことはできないなって思いました。だから、先生が大丈夫な時に連絡をしてもらえればいいなと思って私の連絡先を入れておきました。もし先生が大丈夫な時があれば連絡ください。待っています。

香山玲奈


非常にまずいことになった、と僕は思った。普通に考えて先生と生徒が個人的に会うことは禁止されている。どうすればいいんだ?教室に相談するべきか?自分は本当に悩んだ。普通であれば毅然とした態度で「だめだ」と言うべきなんだろう。でも、僕にはそのようなことを考えるほどの余裕はなかった。それを“彼”の悩みのせいだと言うのはおかしな話かもしれないが、それでも僕は「正常」に物事を考えることができなくなっていたのだろう。

―香山さんの楽しい時間を奪ったのは自分だ。

そんな罪悪感を抱いていたのも自分の行動を正当化させてしまったのかもしれない。

僕は、自分の携帯に香山さんの連絡先を登録した。

「先生です。これは本当はしてはいけないことだから、バレないように」

香山さんからの連絡は早かった

「ありがとう!大好き!」

僕はその言葉に麻酔を打たれたような気がした。

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