たけくら・・・の?

ねこのふでばこ

未踏の地

 カタカタカタ・・・キーボードを叩く音が大阪の某オフィスに響き渡る。


「はぁ・・・ふあぁ。」

 意図せず漏れる欠伸まじりのため息が隣席から聞こえてきた。連日の残業続き、仕方がない。

 だがここは一言注意しておかねば。

「こら、今西、聞こえるようなため息つくなや。幸せが逃げていくやろ。」

 名指しされてビクッとこちらに振り返ったのは期待の新人、今西と呼ばれた今時の女子社員。薄化粧メイクにふんわりと巻かれたセミロング。両目にはブラウンのカラコンが装着されている。

「す、すみません!山崎さん!私、今日ちょっと寝不足で・・・。」

 直属の上司である自分に対して、誠に正直な返しである。

「覚えること多いし、新人にはキツイかもしれんけど頑張ってや。」

「ありがとうございます!」

「ついでに言うけど、俺は山崎やまざきじゃなくて山崎やまさきや。ええ加減にちゃんと呼ばんかい。」

「あっ、す、すみません!わかってるのに濁っちゃうんですよぉ・・・。」

 しゅんとして小さくなっている姿を見るとついバシッと肩をはたきたくなる。所謂この子は天然と呼ばれるタイプだろう、からかいがいのある奴は話してて楽しいものだ。



「もうすぐ山崎さんともお別れだというのに、まだまだ半人前で申し訳ないです・・・。転勤の辞令、受けてるんですよね?」

 そう、ついに自分にも転勤のお鉢が回ってきた。それもあってハイペースで仕事を引き継いでいるのだ。

「まあ、断る理由も見つからへんし、そこそこ長く勤めてきた自分の番やろなとは思ってたしなあ。独身やし、気ぃ遣う家族と同居もしてへんし適任やろな。」


「ところで、支店ってどこにあるんですかね~。」

「は?」

「え?山崎さんの次の配属先、社内メールで拝見しましたので。聞いた事がない地名だなって思いまして。」

「いやいや待て待て待てい、たけくらの、て。なんでそっち読みやねん。普通は『武蔵』って書いてって読むやろ。」

「あ、そっちですかあ。」

 これは・・過ぎる。・・過ぎるぞ。この会話が聞こえたのだろう、向かいの席の同僚の肩が小刻みにぷるぷると震えているではないか。

 とは言え、正直言うと彼女の人生の倍も生きている自分にとっても初見の地名だったのだ。

「東京やろ。さっさとググれググれ。」

「は、はい!すぐやります!」

 チャチャっとキーボードを打つ音。

 彼女の目に映った検索結果、それは地域と出ていた。

「・・多摩?あっ、ですね!山崎さん、東京の人になっちゃうんですね~。」


 関西人は関東地方のことをひっくるめて東京と言いがちである。よって、この言い回しには全く違和感が無く、周りの誰からも突っ込まれずに会話は続く。

「せやな。ついに俺様も都会人やなあ~。」

「でも埼玉ってどんな所なんでしょうね。行ったこと無いです。」

「お、おう。(俺も何も知らんのや)きっと奈良みたいなもんやろ。都会の中心まで二時間くらいかけてかよてるやつな。」

「ちょっとぉ、奈良県民をバカにしてますよねえそれ~。」

 一時間半かけて奈良県から大阪市内まで通勤している今西がふくれる。

「いや、褒めてるやん?偉いで、遅刻もせんと毎日毎日頑張ってると思ってるんやで?」

(実は彼女が出勤前のメイクや髪のセットにそれ以上の時間をかけていることなどは知る由もない)

「えーっ、本気で褒めてくれてます?ちょっとだけ嬉しいです。」

「ちょっとだけなんかい。いやこんな話してる場合ちゃうねん。昼までにちゃっちゃと資料作り上げるで!きばれ、今西!」

「はわわ、すみません、善処します・・・!」


 カタカタカタ・・・オフィスはキーボードを叩く音だけの無機質な空間となった。


 数時間後、正午を知らせるアラームが、静かにそれでいて救いの音のように社内の空気を入れ替える。

「んあーっ、もう昼か、進捗はどないや。」

「はい!意外といい感じに進んでます!あとはこれを上書きじゃなくて別名で保存して、USBを安全に取り出せば完璧です!」

「よしよし、基礎は完璧に覚えたな。えらいぞぉ。」

「もう、また小学生に言うみたいな言い方!私だってさすがに初歩的なミスはもうしません!」

 どれどれ、と、彼女のモニター画面を覗き込み、目を通してみたが着実に仕事の進み具合も正確さも成長がみられる。これなら安心して後を任せられそうだ。

「ほなら、昼飯でも食いに行くかあ。何にするかなあ。今西は何が食いたい?」

「えっ、ご馳走してくれはるんですか?!」

「いや、聞いてみただけ。」

「もう!期待したじゃないですか!でも私さっき山崎さんと話してからずっとお蕎麦が食べたくて食べたくて・・・」

「蕎麦かあ、悪くないな。でもさっきの話ってまさか。」

「もちろん、武蔵野ですよ!なんか老舗のお蕎麦屋さんにありそうな名前やな~って思ったらもう私ずっとお蕎麦の口になってしまってるんです。蕎麦蕎麦、思い浮かべながらそれをモチベに仕事やっつけてました。」

「何でそうなんねん・・・。まあええわ、美味くて安いとこ近くにあるから教えたるわ、一緒に行くか?しゃあない、奢ったるわ。」

「はい!お供いたします!」

 今日一番のええ声出たなあ・・・。



 食べたいものを食べられた事が吉となったのか、期日までに必要な業務は無事に達成できた。久しぶりの定時あがりである。

「お疲れさまでした!私、これだけの仕事量をこなすことができて、なんだか自信が付いてきました!ありがとうございます!」

 ペコっと頭を下げ、後輩は颯爽と帰路に着いた。

 うん。最初は不安しかなかったが、これなら後ろ髪を引かれることなく新しい任地へ赴くことができそうだ。まだ外が明るいうちに退勤できたということもあるし、ちょっと寄り道して行くか。

 ・・・そうだ、本屋に行こう。



 スマホを手にしてからというもの、小説も漫画も雑誌も買うことがなくなってしまった。手のひらサイズの機械ひとつで今や何億冊という本が読める時代なのだから。一人暮らしの家では限られた収納しかないため、本を置くという優先順位はどうしても下がってしまうのが現状だ。


 ゆっくりと店内を見て回り、旅行雑誌のコーナーで足を止める。

 目立つ位置に平積みにされた北海道、京都、沖縄の表紙。これは関西でも関東でも同じ傾向であろう。

(ええと、確かあいつが言うてたのは・・・。)

 ぎゅうぎゅうの本の間からの旅行雑誌を抜き取る。

(ええと、武蔵野・・・。)

 インデックスに目を通す。川越、秩父、大宮、浦和、所沢・・・。

 なんとなく聞いた事のある地名が並んでいるが、武蔵野は見当たらない。

(載ってへんやないかい・・・。どこの地域かも知らんしなあ)

 じっくり最初から目を通していけば見つけられるかもしれないが、仕事帰りで足は棒になる寸前、立ち読みする体力が残っていない。

(まあ、引っ越してからうてじっくり読めばええか)

 そっと元通りに雑誌を棚になおし、その場を後にした。


「ありがとうございました~。」

 繰り返される店員の声が優しく背後から聞こえてくる。




 ここ何年もルーティンワークをこなしてきたが、時が経つのをこれだけ早く感じたことは無い。あっという間に送別会の日を迎えた。

 別れを惜しんでくれる先輩、同僚、そして後輩から花束を渡され、今西にはわんわん泣かれた。

「いやいや、泣きすぎやて。」

「うっ、うっ、本当にお世話になりました。東京に行くことがあったら、道案内お願いしますねっ・・うえええん。」

「わかったわかった。バッチリ東京人になっとるから任せとけ。」

「わーん、楽しみにしてますからねー。」



 そしてついに大阪を離れる日がやって来た。

 朝からずっと労いの言葉でスマホが鳴り続けていたので、その一つ一つに返信していたら出発がずれ込んでしまい、駅に着いた時にはもう昼になっていた。立ち食いそばをすすっていると、またもや懐で振動する。

「今西・・・。」

 先日一緒に行った蕎麦屋の写真を添えて届いたメッセージはこうだ。

『本当にお世話になりました!離れていても、私はこれから毎日お蕎麦♡』

「なんや・・これは・・・」

 どうも最近の若い子のメッセージは理解に苦しむ。とりあえず『おおきに』のスタンプをペタンと押して、透き通った甘めの汁を飲み干した。


 東京行きの新幹線、やっと自分の座席に落ち着き車窓を眺める。住み慣れた街並みとのお別れ、いくつになっても胸にきゅんと来るものがある。いやむしろ、年を重ねる程に感慨深くなっているようだ。

 見渡すと周りの乗客は示し合わせたように皆が皆スマホを手にしている。

 さてと、久しぶりの読書と行きますか。ごそごそと鞄から取り出したのは、スマホではなく文庫本。

 国木田独歩作、『武蔵野』である。



 先日、本屋に立ち寄ったのはこの作品を購入するためであった。

(ふっ、この令和の時代に車内で文庫本を読んでる奴なんて希少やろ。敢えてアナログなスタイルの旅の始まり、俺かっこええやん)

 悦に浸り、自己満足で頬が緩む。



 その頃、大阪支店では、ため息をつく若い女性が一人。

(結局、告白できへんかったなあ。蕎麦とそばに居たいってことを掛けてみたけど全然ダメそう。東京まで押しかけるしかないかあ。)

 



パラリパラリ・・・ページをめくる音だけが静かな座席で聞こえる。

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たけくら・・・の? ねこのふでばこ @nekonohude

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