中編
同日、近江の小谷城では、
「兵糧を運びこむのは、あといかほどかかる」
「一両日中には終わるかと存じますが」
「それでは遅い。今宵のうちに終わらせよ。朝には倉いっぱいに兵糧を満たすのだ」
信長の動きをいち早く掴んだ長政は、早くに籠城を決めていた。長政の裏切りに心中穏やかならぬ信長は、必ずやこの小谷城を攻めおとそうとするはずだからである。だが長政には持ちこたえてみせる自信があった。
そもそも籠城戦において、攻め手は守り手に対しかなりの兵を要するとされる。浅井勢は信長勢に数で劣るといえどそこまでの差はない。また小谷は二重の天守が険しい山の上にあり、周りを幾重もの土塁や空堀に囲まれた、天下でも五指に入ると謳われるほど守りの堅い難攻不落の名城であった。朝倉から援軍の約束も取りつけており、長政は信長勢を城におびき寄せたところで前の戦と同じく挟み撃ちにするもりでいた。
「殿、お休みのところ失礼いたします。
長政が居室に腰を下ろしたところで、すぐさま小姓が駆けつけてきた。他の者ならいざ知らず、他ならぬ義景とあっては戦の前であっても通さぬわけにはいかない。
「左衛門督さまか。すぐに通せ」
供を引きつれて現れた義景は背が低く、左右の目がやたらと離れた魚のような顔つきをしている。くわえて蓬髪に虱が湧き、身の回りを小蠅が飛びかう
「備えは着々と進んでおるな」
「はい。たとえ一年、いや二年のあいだ囲まれようとも、軽く持ちこたえられまする」
「その答えを聞いて安堵した。しかしさすがに二年も籠城をしては、家臣も兵も疲れはてよう。その前に戦を終わらせられるよう、家臣をひとり貸してやろうかと思ってな」
「とんでもございません。これまで、さんざん、お世話になりましたのに」
長政は握り飯をまた口に放りこみ、くちゃくちゃと音を立てながら喋る。時おり芯の残った飯粒が歯に当たるのか、そのつど言葉を止め、米のかけらを畳に吐きだす。
「此度も、援軍をお出しくださっただけで十分です」
義景は、長政が一人で奈良漬けをつまむのにも構わない。長いつきあいで慣れており、古くからの縁で落ち目の朝倉家に力添えをしてくれた恩義もあるのであろう。
「いや、上総介が越前に攻めこんできたとき、儂の味方をしてくれたのが嬉しくてな」
「当然にございます。我が妻、市が上総介の妹とて、何を躊躇いましょう。上総介はあなたさまのやり方に、公然と反旗を翻したのです。私が賛同するわけにはまいりません」
「ならば存分に使ってやってくれ。その方がこやつも喜ぶであろうから」
義景が軽く手招きをすると、襖の向こうからその者が姿を見せた。長政は思わず握り飯を食べるのを止め、しばし瞬きも忘れ目を大きく開く。
背丈は大柄な長政よりもはるかに高く、少なく見積もって七尺はある。四肢は巨木の幹のように太く、胴は岩のように分厚い。何より驚いたのはその異様な風体であった。背に五尺三寸の大太刀を背負い、両手を鎖つきの枷で三重に嵌められている。肌はやけに黒ずみ、顔からは生気が失われ、髷はところどころが乱れたまま。口に固く咬えた煙管からは何の匂いもしない。
「真柄直隆が弟、直澄じゃ。もっともこいつのせいで、もう口は利けぬがの」
義景に言われるまでもなく、直澄が何を吸っているか長政は分かった。義景は自身に仕える直々の家臣を、戦場で剛力を振るわせるため阿片漬けにしたのである。
「ありがたき幸せにございます」
「分かっているとは思うが、くれぐれも例のものを切らさぬようにしてくれ」
「存じ上げております。それではさっそく丁重にもてなしまする。左衛門督さまも、お越しになりますか」
長政は腰を上げ、義景らを連れて部屋を後にした。廊下を通って外に出、城内の一角に設けられた蔵に向かう。入口の前には四人の兵が槍を手に立っており、顎でしゃくると黙って閂を抜き、鉄拵えの戸を開いた。足を踏みいれる前に、長政は外で待つ小姓に食べかけの握り飯を渡す。
「直澄どのは、こちらで戦がはじまるのを待たれるのがよろしいでしょう」
「ここは、ただの蔵ではないか」
「いいえ。私どもが選りすぐった兵の屯所にございます」
そこは、この世の極楽とも地獄ともつかぬところであった。決して広いとはいえぬ蔵の中に七〇を越える数の兵がひしめきあい、みな一様に痩けた頬、落ちくぼんだ目を晒し、だらしなく開いた口から煙管で阿片を吸っている。彼らはおのおの幻覚を見、幻聴を聴いているのか、壁にもたれかかるだけの者から何もない宙に手をやる者、言葉にもならぬ獣のような鳴き声、唸り声をあげる者まで仕草はさまざま。質の悪い阿片の煙に加え、そこらじゅうに撒き散らされた糞尿の臭いが混ざりあい、蔵の中は常人ではとても耐えられぬ悪臭に包まれている。しかしそれらからすら快楽を感じているのか、当の兵たちのどの顔にも得も言われぬ恍惚の表情が浮かんでいた。
「ここまで兵を増やしたのか」
「はい。なるべく阿片の量を使わぬようにいたしまして」
もともと一部の兵に阿片を与え、並以上の力を引きだすやり方をはじめたのは義景であった。それを伝授された長政は、独自の用法を見いだしたのである。
「どのようにして量を減らしている」
「それほど難しくはありません。戦が起こるひと月と少し前に気の荒い、手くせの悪い兵を呼びあつめて阿片を吸わせるのです。癖になるのはすぐですから、なるべく吸わせる日にちを短くするようにしまして。さすれば阿片の量はおのずと減りますでしょう。どうせ捨て駒ですから、上物の阿片を与える必要はありません」
「なるほど、よく考えたものだ」
本来は無臭の阿片も、質の悪いものは強い酸を帯びた臭いを放つ。この土蔵にいる兵たちの吸う阿片が、まさにそれであった。普段から良質の阿片を吸っている直澄は嫌がるかと思われたが、むしろ常人には耐えがたいこれらの悪臭に魅きつけられているようだ。もの言わず兵たちの間を分けいり、真ん中にどっしりと腰を下ろす。
「どうやら直澄さまは、ここがお気に入りのようですな」
「そのようじゃが、仮にも直澄は儂の家臣であることを忘れるな。せめて阿片は質のよいものをやってくれ。あと飯もだ。いくらでも食うから、出してやってくれ」
義景は、さすがに家臣がこの蔵に居すわるのにいい気持ちはしないと見える。すぐに背を向けて扉の外へ出ていった。長政はその姿を見送り、再び蔵の中に目をやる。
おそらく直澄は評定でもまったく役に立たぬ武辺一辺倒であるため、阿片を与えられたのに相違ない。それを口が利けなくなるまでにしておいて、この土蔵に押しやったところで今さら何を憐れむのかと長政は思う。もはや直澄にものの是非を判別する力はなく、戦の興奮のみに無上の快楽を得るようになっている。
ならば気の済むまでそれを味あわせてやるのが、せめてもの褒美ではないのか。長政は直澄を眺め、戦場に立つ姿を頭に思いうかべた。阿片の虜となった兵は、並の体躯の持ち主でさえ常人ばなれした力を振るう。それをもし並はずれた大兵の、直澄のような身の丈七尺もの荒武者に与えればどうなるか、携え歩く五尺三寸の大太刀を見るだけでも想像がつく。長政はそのときが来るのを、信長がこの小谷城を攻めるのを待ちこがれつつ、扉に閂をかけて蔵を後にした。
ところが信長は、長政の思いどおりには動かなかった。いちど軍を敵の本丸に近づけながら、踵を返して姉川を南へと渡ったのである。あらかじめ籠城を決めていた浅井と朝倉は追おうともせず、あくまで小谷城で迎え撃とうとしていた。これを見た信長は高笑いを飛ばし、家臣に命じる。
「備前守め、余がその手に乗ると思うか。ならばこちらは横山城を攻めてやろう」
このころ徳川家康が援軍を率いて信長のもとに馳せ参じ、兵の数は合わせて二万五〇〇〇にまで膨らんでいた。信長はそのうち守就ら五〇〇〇を姉川の南に位置する小谷の支城、横山城の包囲に向かわせ、敵をおびき寄せにかかった。
はじめの目論見が外れた浅井と朝倉は、すぐさまこの誘いに乗る。岐阜を出て実に七日後、夕刻あたりから出陣の兆しありと
しかし光義ひきいる大島隊は、他とは大きく違っていた。まず家臣の数は七七と石高五〇〇〇にしてはやや少なく、内訳も弓騎兵が六六、騎兵が一一。主力は弓であり、槍を振るう騎兵は弓騎兵を守るためにあった。小身であるがゆえに独りで戦を起こせない光義は、主たる得物を弓と定め、家臣にもその名手を揃えたのである。したがってよそは多くが槍を携えるのに対し、大島隊は弓を高々と掲げているため居場所は容易に分かる。しかも光義じしんの形も、ずいぶんと人目を引くものであった。
かなりの若作りとはいえ、家臣や他の将兵と比べると大きな歳の差が容姿に表れている。それでいて藍一色に染めぬいた唐綾威の鎧を軽々と着こなし、遠目にも違いが分かるほど他よりも大振りの長弓を手に握っていた。小袖を纏ってもじゅうぶん長いと見てとれた腕は甲冑姿となるといっそう際立ち、真っすぐに下ろせば指先が膝まで届くほど。肩口から指先までおよそ二尺五寸ある。ほとんど異形の武者であった。
「明日は、そなたたちに力を振るってもらわねばならんぞ」
そして一軍の将みずから自陣、大島家の家紋である笹竜胆が描かれた陣幕の
「みな、しっかりと飯を食うのだぞ。
光義はあらかじめ厳しい軍規を定めたうえで、抜かりなく家臣の顔色や身のこなしから体調を窺い、戦を前にしての不摂生がないかを確かめていた。その甲斐もあってか、羽目を外す者はいない。みな幾つもの戦を経ているだけに、何かをしているといってもせいぜい数人が昔話に花を咲かせ、篝火の近くで縁者から渡された手紙に目を通すくらい。ほとんどが来る戦に備え静かに身体を休めている。
ただ、よその兵となると話は別であった。中には度を過ぎた飲み食いに奔るだけでなく、主の目が届かないのをこれ幸いにどこかへ村娘を犯しに出る者、あるいは男どうしでまぐわう者もある。こうした兵はおおかた本来のはたらきができない。戦を前にしての心構えが定まっておらず、力を振るう前に心身を磨りへらしてしまうからである。
また一介の兵とは別の立場で、やはり気を病む者もいた。光義が自陣をやや外れて歩いていると、すぐ近くから陣幕を隔てて声が聞こえてくる。
「そのような弱気でどうする。この家の男であれば、気をしかと持たぬか。まったく、儂の顔に泥を塗りおって」
「父上、申し訳ありません」
「言うだけなら易いわ。どうせお昌どののことでも考えておったのだろう」
「そのようなことはございません。明日の戦に備えておりました」
鶴に丸の家紋が陣幕に染めぬかれているうえ、雷鳴のようによく通る太い声は光義も聞きおぼえがある。森可成のものであった。となると叱責を受けているのは、同じく出陣前に顔を合わせた可隆になろう。
「家臣の評判に安堵して、国元に置いておいたのは間違いであったようだ。儂はそなたを買いかぶっておった。戦は始まっておらぬのに、こうも無様な姿を晒すとはな」
「ですから、それは詫びております」
「詫びただけで済むと思うか。今さら取りかえしもつくまい。明日はせめて己の身は己で守れ。足手まといは許さぬ」
しばらくのあいだ言いあいが続いたあと、篝火のひとつが消されて可隆が陣幕の外に出てきた。ひどく項垂れ、見るからに気落ちしている。
「ああ、これはお恥ずかしいところを」
光義は素知らぬ顔で通りすぎるつもりであったが、可隆の方から間の悪そうに話しかけてきた。仕草や目の動きから、様子を窺っていたのを覚られている。
「傳兵衛どの。大変ですな」
別に隠しだてするほどでもない。陣が隣どうしであれば、将兵のやりとりを見聞きする、あるいはされることはよくある。だがこうした場に慣れていない可隆は、火が出るほどに顔を赤らめた。
「いったい何がありましたのですかな。差しつかえなければお話しくださらんか」
「実は私、情けない話ではありますが美濃を出てからというもの、どうも兵の熱気に当てられたのか、槍を取りおとしたりいつの間にか隊から離れてしまうなど醜態を晒してしまいまして。それにあまり何をすればいいかも分からず、兵たちからも囃したてられて」
案じていたとおり可隆は戦を前に震え、泣きだしそうになるのを堪えている。家臣の扱いに長けているからといって、ひとりの兵としても優れているとは限らない。仮に可隆が兵としても優れているとしても、おそらく禄に力を振るえまい。初陣ではふだん剛毅の傾奇者を謳う小童でも使いものにならないのが当たり前であり、恐怖のあまりえずきを漏らし、糞尿を垂れながす者も珍しくないのだ。とはいえ生き死にを賭けた戦、しかも大きな合戦で怯えられては、周りの兵は陰口も叩きたくなる。とかくこうしたときは下手に我慢するより、悔しい、恥ずかしいといった情を吐きださせた方がよい。光義はわざと可隆から離れ、顔を見ないようにつとめた。
「傳兵衛どの、初陣とはそういうものです。嗤っていた兵たちも、はじめの頃は貴方さまとそう変わりなかったはずです」
「しかし、父には」
「なに、お分かりとは思いますが、三左衛門さまはあのご気性ですから。それよりは気を和らげて、早めに身体を休めなされ。さもなければ、戦で十分なはたらきが出来ませんぞ」
光義にしてみれば、可成も可成であった。いかに自慢の長子とはいえ、武人と文官の資質の違いもつかないとは。だいたい武将の子は後々のことを考え、自信をつけさせるために勝ちが決まっている戦を初陣に選ぶのが慣わしである。それに今しがた息子を叱責した可成も初陣は怖かったはずなのに、もう当時を忘れてしまったのか。もしくは覚えていてあえて厳しく接しているのか。
「ありがとうございます。ではご忠告のとおり、少し歩いて気を紛らわせることにします」
意をはかりかねていると、可隆は多少なりとも気が晴れたらしく、軽く頭を下げて灯りの届かない暗闇の方へ向かっていく。そのときの表情は瞼を薄く伏せた、猛々しいとは言えぬまでもひとまず落ち着きを取りもどしたものであった。
心の底から恐怖しているのに父から怒鳴られ、そのうえで恥をかいたのに少しも怒らず礼を述べた。胸の内は穏やかではなかろうに、とりわけ可成を良くは思っていなかろうに、それをおくびにも出さない。いや、正しくは声をかけた初めのころ光義をほんのわずか睨みかけ、すぐさま内に収めた。戦に向いているかどうかはともかく、性根の辛抱強さは今しがたのやりとりから窺える。守就父娘が見込むのも分かる気がした。
だからこそ、今は死なせたくない。刃は可隆を避けてはくれまいが、どうにかして生かしたいと光義は思う。広野であれば左右に幅をもたせた守りの構えを五層、六層にとるところを、慎重を期した信長の命により、この戦では幅を狭める代わり一三層に増やす手筈になっている。父である可成の下ではたらくからには、可隆は信長からほど近くの陣につくのであろう。直に刃を交えるとはさほど考えられない。敵にそこまで迫られるのは、おそらく戦に負けたときになる。その前には片をつけたい。光義は厚い雲に覆われ星ひとつ見えない夜空と、敵兵のひしめく北の方をぼんやりと眺めた。
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