弓聖

新宮義騎

前編

 南無八幡大菩薩、我国の神明、日光の権現、宇都宮、那須の湯泉大明神、願はくはあの扇の真ん中射させてたばせ給へ。これを射損ずるものならば、弓切り折り自害して、人に二度面を向かふべからず。いま一度本国へ迎へんとおぼしめさば、この矢はづさせ給ふな。 ──平家物語 巻第十一「那須与一」より


ととさま、それから与一は矢を扇に当てられたのですか」

「続きはまた今度じゃ。今日はもう遅い」

「また明日ではないのですか。お聞きかせください。与一の矢は当たったのか、明日お話を聞きとうございます」

「済まぬが父さまは、ちと明日からお出かけせねばならん。続きは帰ってきてからじゃ」

 大島新八郎光義は膝の上に乗せた次男、茂兵衛を宥めて寝床に向かわせた。辺りを蝋燭の炎が照らし、板張りの床と壁に揺らめく二つの影を映しだしている。茂兵衛の足音が遠のき、やがて消えるのを確かめてから、屋敷に招かれた白髪の小柄な老人、安藤あんどう伊賀守いがのかみ守就もりなりが杯を手に呟いた。

「何が父さまじゃ。もうとっくにじじさまと呼ばれていい齢のくせに」

「伊賀さまは、妬いておられるのか」

「妬いてなどおらぬわい。その齢でようやく次男をもうけているのでは、孫の顔など見られぬであろうと憐れんでおるのじゃ」

「これはこれは、伊賀さまは何か思い違いをされているようですな」

 光義は口元を緩め、いつものように守就を伊賀と呼んで酒を注いだ。当年とって六十三の歳相応に肌は枯れているものの、五尺三寸の身の丈は少しも縮んでおらず、それなりに黒く房々とした髪と髭、長い手足や広い肩口に厚みのある胸回り、まだかなりの色気を残した表情と相まって少なくとも十は若く見える。

「子を為すためには房事に励まねばなりませぬが、この齢ともなるとそうそうその気になりませぬ。そこへ行くとありがたいことに、それがしの妻、おこうは祝言を挙げて十二年たつのにまだ二十八。たしかに孫の顔は拝めますまいが、代わりに若妻が抱けまする。いやいや、いいものですぞ……」

「新八郎」

「妻は乳房も尻も形がよく大きうございましての。ちょっと優しく弄ってやるだけで、普段は抜けるように白い肌を桜色に染めて、身をよじらせて悶えてくれて……」

「新八郎、その辺にせんか」

「しかし毎晩のようにせがまれると、なかなか身体に堪えまする。ゆうべもいささか精が出すぎましてな。特に腰がこう、痛うて痛うて仕方ありませぬ」

「年甲斐もなく無理をするからじゃ。それにしても羨ましうてかなわぬ。まことに精が出ておるではないか」

 今度は守就も笑って、杯をあおった。庭先では夏虫が賑やかに鳴き、燭台の回りを蛾が舞っている。細かな鱗粉が散って、糸屑のように小さな火の粉をあげた。

「しかし茂兵衛どのはもう八歳。いまだに父親に話をせがんでいては心許なかろう。いくら歳をとってできたからといって、甘やかしすぎではないのか」

「なに、長男が腕白なものですから、次男は優しい子にしようと思いましてな。それに二人目もやはり可愛いもの」

 光義は、床に転がっていた鉛玉を握る。差しわたし二寸七分、重さは一貫目もある大筒の弾であった。それを回すでもなく転がすでもなく、無造作に掌に包んで何度も上げては下ろし、時おりお手玉のように掌で軽く宙に放る。また鉛玉を傍らに置いたかと思えば、今度は手元の鏃を何本か柱に向かって山なりに投げはじめた。ほとんどが当然のように弾きかえされる中、一本だけがほとんど触れただけであるにも関わらず深々と木肌にめり込む。守就は慣れているのか、その挙動をとりわけ気にもしない。

男子おのこでそれでは、娘ならどんなになるか、目に浮かぶようだわい」

「娘を嫁に出すとき嫉妬に狂いそうだとでも。そう言えば伊賀さまの末の娘さま、お昌さまは、そろそろどこかに嫁がれるお年頃ではありませんでしたかな。そのことを案じておられるのか」

「たしかにこれまで嫁がせた娘たちは、おぬしの申すとおり手放すのが口惜しくはあったがの。あいにく昌に限っては別でな。相手が身も心も涼やかな若武者と来れば、ただ嬉しいの一言に尽きる。昌があんなにも男を見る目があったのが嬉しくてたまらぬのだ。その昌の孫こそ、一度でいいから顔を見てみたいものよ」

「伊賀さまが素直にお認めになるほどの若武者とは、どなたですかな」

「おぬしも親しかったであろう。森三左衛門さんざえもんさまのご長男、傳兵衛でんべえ可隆よしたかどのじゃ。今年で十九になった。近々、祝言を挙げることになっておる」

 可隆は、守就だけでなく光義もよく知っている。四、五年前までこの屋敷に足繁く通っていたこともあり、何度も遊びの相手をつとめ、弓馬の稽古もつけた。父の森三左右衛門可成よしなりは、光義と守就ふたりが仕える織田信長の古くからの重臣でもある。守就にはこれ以上ない慶事であり、友である光義にとっても喜ばしい報せであった。

「では伊賀さまもひと安心」

「としたいところだ──しかし、それも此度の戦が終わってからになるがの」

 守就が笑みを消した。深く刻まれた皺が、濃い影となって顔に表れる。

 永禄十三年に京へ上った織田信長は、いまだ服属を拒む朝倉義景を討つべく越前へ向かった。ところが信長と盟約を結んだはずの浅井長政がこれを受けて離反し、かねてより主従の間柄にあった朝倉と組み、兵を率いて背後から信長勢に襲いかかったのである。信長は数多の兵を犠牲に辛くも岐阜へ退き、怒りに燃えて朝倉と浅井を滅ぼそうとしていた。織田家の家臣である光義らは、そのために明日にも美濃を発つ手筈になっている。

 光義は沈んだ様子の守就を気づかい、鏃を手放してしばしの沈黙を破った。

「しかしいくら浅井と朝倉が手を組もうと、我らの方が数ではるかに勝っております」

「たしかに数の上ではな。だが、このあいだ儂は妙な噂を聞いての。さきの戦にて殿をつとめた木下どの((秀吉))によれば、こちらが槍で突いても斬りつけてもなかなか倒れず、血が枯れはてるまで追いかけてきた兵があったという」

「お屋形((信長))さまは、すんでのところで討ちとられたやも知れぬとのお話。敵方からすれば手柄も手柄、大手柄が目の前にあったのです。驚くには当たりますまい」

「いや、その兵たちが歯を悔いしばり、必死の形相で迫ってくるのであれば話は分かる。だが傷を受けても苦しむどころか、腑抜けたうすら笑いを浮かべながら迫ってきたと聞く。これはただごとではない」

 光義も、戦で笑みを浮かべる者を目にした覚えはある。しかしそれらは作り笑いか興奮のあまりか、もしくは手柄を挙げての歓喜の笑みであった。大手柄を前にして、腑抜けた笑みを浮かべる兵はいない。光義が首を捻るあいだにも、守就が杯を置いて話を続ける。

「それともう一つ。動きが鈍いおかげで逃げきれたが、別の追手に身の丈七尺の大兵者だいひょうものが交じっていたという。その数、三人」

「三人とは妙ですな。身の丈七尺は二人ならおそらく真柄まがら直隆なおたか隆基たかもとの親子でありましょう。しかしあそこまでの大兵がもう一人とは」

「とにかく、此度の戦はそう易いものではなかろう。とくにおぬしは明日、お屋形さまから呼び出されているのであろう。格別のはたらきを期待されているのではないか。息子に『お出かけ』などと嘯いている場合ではないぞ」

 まったくもってお出かけどころではない。何せ、光義はこれから人を射ころしにいく、もしくは殺されにいくのだ。苦笑してつまみの梅干を囓り、柱に刺さった鏃と蝋燭の炎を眺めながら酒をあおった。


 翌日、光義は出陣前に岐阜城へ足を運んだ。城は町を見おろすように山の上に築かれ、他とは一風変わった南蛮様の造りを採りいれている。いかにも主の傾いた趣を凝らした、信長の居城であった。

 その岐阜城で主の待つ屋敷に向かう途中、廊下で一組の親子とすれ違う。親の方は互いに顔見知りの森可成。声色は親しげではあるものの、光義よりはるかに高い背丈、髭を蓄えた顔つきはまさしく歴戦の勇士であった。

「おお、これは新八郎どの。おぬし、今日はなぜここに」

「お屋形さまに呼ばれまして。左衛門さまの方こそ、いかがされました。ご一緒されているのはどちらさまですかな」

「新八郎、よもや耄碌したわけではあるまい。それともお孝どのに入れあげるあまり忘れたか。これはおぬしにも世話をしてもらった傳兵衛だ」

 はじめから光義も何となく勘づいていた子の方は、やはり昨夜の話にも出た傳兵衛可隆である。なるほど小さい頃の面影はたしかにあるが、頭に思い描いていたよりずっと見目よい若者に成長していた。森氏の血を引くだけあって背は父と並ぶほど高く、際立った美男子ではないにせよ育ちのよさ、折り目の正しさが身体の内側から表に出ている。目もとの彫りが深く、怒れば父同様に猛々しく、逆に笑えば柔和になる表情ゆたかな面立ちをしていた。

「お久しぶりです。ご壮健そうで嬉しうございます」

 声は澄んでおり、物腰穏やかで立ち居振るまいも芯が通っている。何より父から促されるまでもなく声をかけてきてくれた。光義には、これだけで父や家臣からどのような教えを受けてきたかが分かる。守就が惚れこんだのにも納得がいく。隣に立つ可成も、どこか誇らしげに見えた。

「傳兵衛が此度の戦で初陣を飾るので、お屋形さまにお目見えさせたのだ。つい今しがた激励のお言葉も賜った」

「ほう、初陣でございますか」

 光義は面に笑みを表しつつ、胸の内で可隆を案じた。十九というやや遅い齢、しかもこれから臨む楽ではない戦で果たして無事に初陣を飾れるであろうか。昨夜に守就が顔を曇らせた理由が窺い知れる。

「なに、武芸も鍛えてはいるのだが、儂が戦に出ているあいだ留守を任せきりでな」

「留守を任せられるほど、立派にお育ちになられたのですな」

「そうだ。家臣からの評判もなかなかよいのだが、おかげで戦場いくさばに連れていけなんだ。それで此度の戦で初陣を飾らせることにしたのだ」

「さようでございましたか」

「では、これにて失礼。また戦場でお会いするとしよう」

 可成はこれから軍を率いるのであろう、話をそこそこのところで切りあげ歩いていく。可隆も目を伏せ頭を下げてから、父のあとに続いていった。

 今しがたの話から察するに、可成は長子の可隆によほどの期待をしている。いかに家臣の助けがあるとはいえ、元服を済ませて数年で留守役が務まるとはよほど優れた若者に違いない。可成の話しぶりからして、評判はなかなかどころではなくかなりよいのであろう。実のところは絶賛されているのだが、そこは他人の手前、謙遜したに過ぎず、今にも自慢したい腹の内が透けて見えた。

 しかし領国の政と戦はまったくの別物。可隆に国主の資質があるからといって、武将、あるいは武士としても優れているとは限らない。たとえ武芸の稽古を積んだとしても所詮は稽古であり、戦場で相応の働きができるかどうかは疑わしい。

 そうして可隆を気にかけながら廊下を歩いていると、やがて広間に着く。最奥部に座すのは主の織田上総介信長、手前に居並ぶのは柴田修理亮しゅりのすけ勝家、佐久間右衛門尉えもんのじょう信盛、佐々内蔵助くらのすけ成政、安藤守就をはじめとした十人たらずの重臣たち。その重臣たちは気難しい主の御前であるためか、くわえて出陣を控えているせいか多くが張りつめた面持ちでいる。異例にも小禄の身にして呼びだされた光義は、ひびだらけの手を床につき恭しく頭を下げた。

「よくぞ参った。面をあげよ」

 一段たかい上段の間から、信長が光義を見おろす。齢は三十七と光義よりはるかに若いにも関わらず、物腰や態度に遠慮のかけらもない。離れていても真っ赤な派手ごのみの羽織と同様、鼻の高い細面がはっきりと目に映る。甲高い声が部屋じゅうに響いた。

「新八郎、変わりないか。武芸を怠ってはおらぬであろうな」

「稽古を積み、鈍らぬよう努めております」

「戦に出ない間も続けていたか」

「それしか能がございませんゆえ。五つのときから欠かした日はございませぬ」

 信長は、口元だけを緩めた。いちど家臣たちを見まわしてから、光義に目を戻す。

「久方ぶりであるから茶でも汲みかわしたいが、そうも言ってはおれぬのでな。さっそく話に入る。きょう貴様を呼んだのは、訊いておきたいことがあるからじゃ。余は近江と美濃を行き来するあいだ、者どもに命じて大量の種子島((火縄銃))を買わせた。此度の戦ではじめて数を揃えて用いてみようと考えているが、それをどう思う」

 いつもながら形ばかりの挨拶は短く済ませ、用を申しつける。他の家臣たちの捉え方は別にして、光義にとって信長はそれほど扱いづらい主ではない。無駄な話をするのが面倒なだけなのだ。またものの考え方もどことなく似通っており、この戦に限って出陣前に呼びだされた訳も何となく読めた。光義は間を置いてから、わざとやや大仰に口を開く。

「たしかに種子島は、またとない利器にございます。しかし私めから見えまするに、欠けたるところが五つございます」

「ほう、五つもあるか。申してみよ」

「まず、種子島は持ちはこびに難儀いたしまする。それそのものに相当の重さがあるのみならず、扱うには火縄を用意しなければなりませぬ。よって使うとすれば、守り手に限られましょう。攻め手にかけて用いるのは、下策と存じまする」

 重臣たちは黙って頷いた。信長も満足そうに首を縦に振り、扇子の先を畳に当てる。

「もとより、守り手で使うつもりじゃ。此度の戦は、野戦に持ちこんで浅井と朝倉を引きずり出す。その際、我らが陣にてあやつらを迎え撃つ。次は」

「火薬に火をつけるために、どうしても持ち手が熱くなりまする。そう何発も撃てぬものと存じまする」

「ではあらかじめ、冷やすための水を用意しておけばよい。どうせ攻め手では使えぬのだ。ちょうど戦場は川の近くにある。心配なかろう。その次は」

「なかなか狙いが定まりづろうございまする。弓は稽古を積めばそれ相応に的へ矢を当てられまするが、種子島はそうはいきませぬ。全てとは申しませぬが、弾がなかなか狙いどおりには飛ばぬものと存じまする」

 光義は身ぶり手ぶりを加え、いかにも時間かせぎをするようにゆっくりと喋る。大方の答えを頭では決めていながら、どのようにものを言えば主を納得させられるか腐心していた。何度も矢継ぎ早に答えを返す信長と光義に、はじめは見事といった風にやりとりを眺めていた重臣たちも顔を見あわせる。光義が主の機嫌を損ねはしないかと心配していた。

「多少、的を外すくらいは織り込みずみじゃ。数を揃えておるゆえ、雨のように浴びせかければ弱みにはならぬ。後は」

「種子島は、火薬を用いて弾を飛ばすものにございます。その際、筒のところに、たとえば煤などが溜まりますると弾が飛ばぬばかりか、破裂して撃ち手の身体を害すると聞きおよんでおります」

「その話は、余の耳にも入っておる。こまめに煤を払うよう申しつたえ、隙が出来ぬようその間に別の者に撃たせれば差しつかえなかろう。では最後は」

「水で濡れるなどして火薬がしけますると、弾が飛びませぬ。すなわち雨のときには、まさしく無用の長物になりまする」

 火縄銃の弱みは、銃であるがゆえに水に浸かると使えなくなる点にあった。水に強い水火縄も作られてはいたが、数に限りがあるうえ何日も雨に晒されればさすがにしける。信長は最後の答えを聞くと、大きな溜め息を吐く。

「余が頭を痛めているのは、そこよ。此度の戦は野戦。陣笠で雨を避けるにも、素早く軍を動かさねばならぬ。今年は雨が多く、なかなか梅雨が明けぬゆえ、おそらく種子島は使えまい。余が何を申したいか分かるか」

「種子島に代わって、私めが弓の腕を披露いたしまする」

 光義が再び面を伏せると、信長がはじめて笑い声を漏らした。これから臨む戦では火縄銃が使えない見込みが強いために、弓矢に、光義に頼ろうというのだ。どうやら思いどおりの答えが聞けたと見える。

「分かればよい。なに、気を抜いてもらっては困ると思うたのじゃ。朝倉と浅井が相手では、こちらが多勢とて易くはないからの。よって大島新八郎光義には、此度の戦にて一の弓の役目を遣わす」

「はっ。ありがたく、謹んでお受けいたします」

 光義は頭を下げたまま短く答え、信長の様子を窺う。この一見して奇矯とも取れる主の扱いには、こつがあった。頭のはたらきが鈍すぎれば相手にされず、逆に鋭すぎれば疎まれる。鋭い面を見せて期待に応えるだけでも悪くはないが、鈍い面も覗かせればいっそう喜ばれる。光義は分かっていながら、敢えて主に問うた。

「しかし此度の戦が並々ならぬこと元より肝に銘じておりますが、なにゆえ私めがそれを申しあげるためにかような問答をなされましたのか」

「種子島は、おそらく貴様にとって商売敵であろう。もしすべてが弓矢に取って代われば、貴様は飯を食いあげて家臣を手放さねばならぬ。種子島の欠けたるところを、どれだけ挙げられるか試してみたのじゃ。許せ」

 信長がますます上機嫌になるのを見、重臣たちも揃って相好を崩した。信長のやり方はいつもこうなのだ。具申を聞きいれるためではなく、おのれの考えが正しいかどうかを確かめるために求める。はじめから信長は、火縄銃の欠点を同じように見抜いていたに違いなかった。光義は場の和みようを見はからって顔を上げる。

「それから二つ、恐れながらお屋形さまにお尋ねしたいことがございまする」

「これ、新八郎」

 口を挟んだのは、佐久間信盛である。古くから重用されているだけに、わずかの非礼も見過ごせないらしい。小さな痩せほそった顔を蹙めて光義を睨みつけるが、信長は逆に信盛に向かって扇子を向ける。

「よいよい。新八郎は儂の問いに答えてくれたのじゃ。申してみよ」

 光義はちらりと脇を見、信盛が畏まるのを確かめた。目を床に落としている。

「実は私、お屋形さまから激励のお言葉を賜ります前より、此度の戦は容易ならざるものと存じておりました。と申しますのも、先日、朝倉勢に身の丈七尺の大兵が三人もありましたこと、また斬られても斬られても、薄ら笑いを浮かべながら迫る奇怪な兵がありましたことを耳にいたしましたゆえにございます」

 途端に、重臣たちは口を噤んだ。訳知り顔で気まずそうに下を向く者から、初耳という風に目を見ひらく者までさまざま。

「弥助、件のものをもて」

 信長は一同を検めると、部屋の外に向かって声をかけた。それから再び光義の方に向きなおる。機嫌を損ねるどころか、我が意を得たりといった面持ちでいる。

「新八郎、その話をよくぞ持ちだしてくれた。まず貴様の口にした大兵の者だが、うち二人は皆も知るように真柄直隆と隆基の親子。もう一人は名をさほど知られておらぬが、直隆の弟である直澄なおすみじゃ。いずれも怪力を誇る一騎当千の荒武者ぞ。こやつらに率いられて他の兵たちが勢いづけば、厄介な戦になるであろう」

 次いで襖が開き、南蛮生まれの弥助が入ってきた。ここに来る途中で会った可成よりも大柄な、真っ黒な肌をした筋骨隆々の偉丈夫である。遠目からでもかなりの威圧感を受ける体躯はおそらく六尺あり、噂どおりであれば真柄一族の三人はこの弥助よりもさらに一尺も背が高いことになる。多分に身体の幅も厚みもそれ以下ではあるまい。しかし体躯にばかり目を奪われている暇はない。弥助が床に置いた深鉢には、見慣れない草本が植えられている。

「あと新八郎、貴様の言う奇怪な兵とは、これに違いないと余は踏んでおる」

「これは、一体」

 草本は四尺と、ずいぶん大きい。くすんだ緑色の葉が生えており、太い茎の先端は差しわたし三寸ほどの大きさに膨らんでいた。お世辞にもあまり心地よい匂いはしない。やはりこちらも、何人かの重臣は何やら知った顔でいる。

「これは芥子けしといってな、花の鮮やかなることとは裏腹に、果実から摂れる汁に毒が含まれておる。触れるだけでは害はないが、一たび身体に取りこまれるともう助からぬ。とりわけ恐ろしいのが汁を集めて煮だし、固めた阿片と呼ばれるものじゃ。毒を吸いこんだ者はこの世のものとは思えぬ、たとえ腕一本落とされても痛みを感じぬほどの快楽を得るが、それと引きかえに臓腑を蝕まれ思慮分別をも奪い去られ、最後には腑抜けのようにされてしまう。元来はからの奥地に育つものが、近ごろ貿易で北国に流れてくるようになった」

 そこへ、色の黒い小太りの佐々成政が口を挟む。一度は驚いて目を見ひらくも、家臣の中でも歳かさらしくすぐに落ちつきを取りもどしていた。

「しかし妙な話ではありますな。浅井も朝倉も、唐と貿易をしていると耳にした覚えはございませぬ。またそれだけの富もあるようには思えませぬ」

「貴奴らが直に唐とやりとりをしているのではない。阿片を買いいれているのはおそらく越後の上杉よ。阿片の幻夢に取り憑かれ、己を毘沙門天の化身と嘯いておるわ」

 主の答えを聞いた家臣たちの目には、後に名を謙信と変える上杉輝虎の姿が見える。仏門に身を捧げるため女犯の禁忌を守ると謳いながら、その実は阿片の快楽に耽溺する姿が。

「上杉の目論見はともかく、今やその毒の力を知った朝倉や浅井が兵の一部に阿片を与え、まさに痛みや恐れを知らぬ死人の軍を作りあげようとしておる。浅井に関しては余が忍に命じて調べさせたところ、数は七、八○」

「孫子曰く」

 信長が言いおえるや否や、ひとこと太い声を発したのは柴田勝家であった。織田家随一の猛将が巨躯を前に傾け、濃い髭に覆われた唇を開く。

「『平時は兵を赤子のごとく慈しみ、戦場では塵芥のごとく使いすてよ』。我ら、戦にて兵を使いすてることに些かの遅れもございませぬが、平時において得られる安息をも兵から奪う気はさらさらございませぬ」

「余も同じじゃ。兵にかような毒を盛る左衛門督((義景))や備前守((長政))に比ぶれば、この第六天魔王など可愛いものであろう。だがこれら毒を盛った兵を、追いつめられた貴奴らは必ず使ってくる。国を治むる主としてあるまじき行い」

 信長は扇を畳んで立ちあがり、眼下の家臣たちの顔を眺める。普段から高い声をいちだんと高く強め、鋭い目に力を込めた。

「それに何より、阿片でそのほかの家臣や足軽、無辜の民も損なってはならぬ。朝倉や浅井をのさばらせれば、じきにその恐ろしい毒がはびこるのは目に見えておる。それを防ぐためなら山門、いや帝が相手とて容赦はせぬ、余は喜んで悪鬼羅刹と罵られよう。よいか、日の本に芥子、阿片があったことを民草に知られてはならぬ。痕跡すらも残さず根絶やしにするのだ。そのために貴様ら、此度の戦、ゆめゆめ怠るでないぞ。これより出陣じゃ」

「はっ」

 光義と重臣たちは、揃って畳に手をつく。信長は刀を手にとり広間を出ていく。残った家臣たちも、追うように後に続いていった。

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