第376話 行仏威儀その三 無縄自縛

 「「仏縛」といふは、菩提を菩提と解会げえする、即知見そくちけん即解会そくげえに即縛せられにぬるなり。一念を経歴きょうりゃくするに、なほいまだ解脱の期を期せず、いたづらに錯解さくげす。菩提をすなはち菩提なりと見解けんげせん、これ菩提相応の知見なるべし。たれかこれを邪見といはんと想憶す、これすなはち無縄自縛むじょうじばくなり。縛々綿々として樹倒藤枯じゅとうてんこにあらず。いたづらに仏辺の窠窟かくつ活計かっけせるのみなり。法身ほっしんのやまふをしらず、報身ほうじんきゅうをしらず。」

 「仏縛」というのは、菩提(真実・真理)を菩提であると頭の中で観念的・抽象的に理解したと思うことによりその途端にその知見、その理解に捉えらえ縛り付けられてしまうのである。瞬間に真実・真理に触れているのに、やはりいまだに解脱の時期がわからず、いたずらに間違った理解をしている。菩提(真実・真理)を菩提だと理解するのは菩提に相応しい知見であり誰がこれを邪見とするだろうかと想うこと、これが即ち無縄自縛(縄がないのに自分自身を縛り付けてしまう)なのである。この縄がないのに縛り付けられていることが綿々として続いてしまい、樹倒藤枯(藤が絡み付いている樹木が倒れれば藤も枯れる、つまり根本根こそぎ解脱する)ではない。無駄に仏の周辺の穴倉に生活しているようなものである。本来法身であるのにそれが病んでいるのに気づかず、法の報いのある身でありながら困窮しているのに気付かないのである。

 人間は脳味噌に囚われる。頭の中で考えたことが正しい、凄いと思い込み、憑りつかれる。頭の中の妄想を正しいと信じ込み誤った方向へ突き進んでいく。妄想に憑りつかれる、無縄自縛だ。

 政治家などこの典型だ。

 今の世の中、ネット空間に妄想が溢れている。自分が正しいという妄想に憑りつかれている。

 頭の中に展開されているに過ぎない光景を現実世界のことだと錯乱して思い込む。現実世界をありのままに見ることができなくなってしまう。こういう人間のなんと多いことか。頭の中の妄想を信じ込む。妄想に憑りつかれてしまう。無縄自縛である。

観念的な言説はもうたくさんだ。そう感じる。無縄自縛を脱しなければいけない。そのためには坐禅するしかないのだ。

 坐禅した瞬間に真実・真理と一体となる。そしてそれが本来の姿なのだ。我々は法身であり報身であるのだ。坐禅した瞬間に樹倒藤枯だ。世界はありのままの姿を現すのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る