第377話 行仏威儀その四 縛に縛せられざる

 「教家経師論師きょうけきょうじろんじ等の仏道を遠聞おんもんせる、なほしいはく、「即於法性そくおほっしょう起法性見きほっしょうけん即是無明そくぜむみょう(法性に即して法性の見を起す、即ち是れ無明なり)」。この教家のいはくは、法性に法性のけんおこるに、法性の縛をいはず、さらに無明の縛をかさぬ、法性の縛あることをしらず。あはれむべしといへども、無明縛のかさなれるをしれるは、発菩提心の種子しゅうじとなりぬべし。いま行仏、かつてかくのごとくの縛に縛せられざるなり。」

 経典を読むことによって仏教を学ぼうとする者たちは仏道を遠くにわずかに聞いているのだが、それでも言うことに「法性について法性とは何かという考えを起すならば即座に無明に陥る」と。このような人間が言うことは、法性と聞いて法性とは何かという考えが起こる時に法性に縛られてしまうことを言わず、更に無明に縛られるということを重ねてしまう、法性に縛られることがあるということを知らない。憐れむべきことであるけれども、無明の縛が重なることを知っているのは真実・真理を知りたいという菩提心が起こることの種子とはなるだろう。行仏とはかつてこのような縛に縛られないのである。

 今の世の中、言葉を多く発することが優れていると考えている人間がとても多いと感じる。膨大な言葉がネット上に溢れている。言葉を発するとその言葉に囚われてしまう。言葉に縛られる。言葉の縛だ。そして現実をありのままに見ることができなくなってしまう。無明の縛だ。

 人間の価値は何をしているかにある。坐禅した身心は何をすれば良いかがわかり、実行できる。

 頭の中の様々な観念の縛を坐禅して振りほどき、真実・真理と一体となって行動していかなければいけないのだ。「縛に縛せられざる」人間にならなければいけない。

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