第375話 行仏威儀その二 仏魔法魔

 「しるべし、諸仏の仏道にある、覚をまたざるなり。仏向上のどう行履あんりを通達せること、ただ行仏のみなり。自性仏等、夢也未見在むやみけんざいなるところなり。この行仏は、頭々ちょうちょう威儀現成げんじょうするゆゑに、身前に威儀現成す、道前に化機漏泄けきろうせつすること亙時かんじなり、亙方かんぽうなり、亙仏なり、亙行なり。行仏にあらざれば、仏縛法縛ぶつばくほうばくいまだ解脱せず、仏魔法魔に党類とうるいせらるゝなり。」

 知らなければいけない。諸仏は仏道にあってその時に悟ろうとすることなどはしないのである。仏としてさらに向上していこうと行動していくことをきちんとやっていくのはただ行仏だけである。自分自身がそのまま仏であるというような自性身等の考え方をする者は夢にもまだ見たことがないのである。この行仏の一人一人に威儀が現れるのであるから、その身体に威儀が現れ、その場に真実・真理の教えが溢れ出てくることは、全ての時間に亘るのであり、全ての場所に亘るのであり、全ての仏に亘り、全ての行いに亘るのである。行仏ではないのであれば、仏に縛られ法に縛られて未だに解脱できず、仏という魔、法という魔の仲間となってしまうのである。

 行仏とは、坐禅した身心で毎日毎日瞬間瞬間を一生懸命に行動して生きていくことだと思っている。そこに威儀が現成するのだ。

 悟りだとかいうそんな頭の中の観念など関係ない、不要なのだ。

 坐禅した身心で日常生活をひたすら一生懸命に生きる。行動して行く。それが行仏だ。そう思う。

 坐禅せず頭の中で観念的、抽象的なことをいじくり回していると人間は現実を見失う。目の前の事実が分からなくなってしまう。見えなくなってしまう。その状態が仏縛法縛、仏魔法魔に憑りつかれた状態なのだ。そう思っている。

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