第370話 即心是仏その二十一 発心・修行・菩提・涅槃

 「しかあればすなはち、即心是仏とは、発心ほっしん修行しゅぎょう菩提ぼだい涅槃ねはんの諸仏なり。いまだ発心・修行・菩提・涅槃せざるは即心是仏にあらず。たとひ一刹那せつなに発心修証するも即心是仏なり、たとひ一極微ごくみ中に発心修証するも即心是仏なり、たとひ無量劫むりょうこう中に発心修証するも即心是仏なり、たとひ一念中に発心修証するも即心是仏なり、たとひ半拳裏はんけんりに発心修証するも即心是仏なり。」

 そういうことであるから、即心是仏とは、発心(真実・真理を知りたいと願うこと)して修行(坐禅をしながら仏教を学ぶ)して菩提(真実・真理)・涅槃(身心の均衡、安定)を実現・実証している仏と言われる方々なのである。いまだ、発心・修行・菩提・涅槃を行っていなければ即心是仏ではない。たとえわずかな一瞬に真実・真理を知りたいと願って坐禅するのも即心是仏であり、物資の最小単位の中で真実・真理を知りたいと願って坐禅するのも即心是仏であり、無量劫というようなとてつもない長い時間にわたって真実・真理を知りたいと願って坐禅するのも即心是仏であり、一念というごく短い時間に真実・真理を知りたいと願って坐禅するのも即心是仏であり、拳を半分握ったくらいの大きさの中で真実・真理を知りたいと願って坐禅するのも即心是仏なのである。

 即心是仏とは真実・真理を知りたいと願って坐禅して真実・真理と一体となり、身心の均衡・安定を実現・実証することだ。自ら願い、坐禅という行動を起こさないのであれば即心是仏ではない。

 発心せず坐禅もせずに、今のこの自分の心が仏であるなどということはあり得ないのだ。

 仏教は精神的、抽象的なものではない。心を永遠不滅の霊魂だなどと抽象的なことを言うのは仏教ではない。

 

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