第369話 即心是仏その二十 脳味噌偏重の時代

 「生死去来心しょうじこらいしんは生死去来のみなり。さらにめいなし、なし。牆壁瓦礫心しょうへきがりゃくしんは牆壁瓦礫のみなり。さらに泥なし、水なし。四大五蘊心しだいごうんしんは四大五蘊のみなり。さらに馬なし、猿なし。椅子払子心いすほっすしんは椅子払子のみなり。さらに竹なし、木なし。かくのごとくなるゆゑに、即心是仏、不染汚ふぜんわ即心是仏なり。諸仏、不染汚諸仏なり。」

 生死去来の心、生きる死ぬ過去未来つまり人間が生きるという現実の心は、生死去来のみである。その上に迷いだとか悟りだとかを付け加える必要はない。牆壁瓦礫の心、垣根や壁や瓦や小石の心は牆壁瓦礫のみである。壁を作る材料である泥とか水だとかを付け加える必要はない。四大五蘊の心、地・水・火・風、色・受・想・行・識の心は四大五蘊のみである。意馬心猿(走り回る馬や騒ぎ立てる猿のように心が乱れて落ち着かないこと)の馬とか猿とかを付け加える必要はない。椅子払子の心は椅子払子のみである。材料である竹だとか木を付け加える必要はない。このようなことであるから即心是仏は純粋で汚れのない即心是仏なのである。諸仏(仏と言われる方々)は純粋で汚れのない諸仏なのである。

 ありのままの事実、自分自身の状態も周囲の状態もありのままの事実としてわからなければいけない。

 世の中を見ていると、事実を事実として認識できていないことが非常に多いと感じる。事実を脳味噌でこね繰り回し歪めて妄想を作り、その妄想に囚われて訳のわからないことをやっている人間がとても多いと思う。

 事実をありのままに捉えられなければ、正しいことができるはずがない。

 脳味噌をいくら使っても事実をありのままに捉えらることはできない。かえって妄想に囚われるだけだ。

 坐禅するしかないのだ。脳味噌偏重の時代だが、これは危険だ。坐禅して身心を大宇宙の真実・真理と一体としなければいけない。坐禅しましょう。

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