第7章 即身是仏

第350話 即心是仏その一 我々の心は仏なのか

 「仏々祖々、いまだまぬかれず保任ほうにんしきたれるは即心是仏そくしんぜぶつのみなり。しかあるを、西天さいてんには即心是仏なし、震旦しんだんにはじめてきけり。学者おほくあやまるによりて将錯就錯しょうさくじゅさくせず。将錯就錯せざるゆゑに、おほく外道げどう零落りんらくす。」

 仏祖と言われる方々が必ずしっかりと自分のものとして保っているのは即心是仏だけである。そうであるけれど、インドには即心是仏という言葉がなく中国で初めて言われた言葉である。そのため仏教を学ぶ者の多くが誤ってしまい何とかして言い表そうとしない。何とかして言い表そうとしないために多くの者が仏教ではない考え方に陥ってしまうのである。

 即心是仏を文字通りに読めば我々の心が即ち仏であるということだ。この即心是仏という言葉は中国で言われた言葉なのだそうだ。

 将錯就錯は錯(誤り)をもって錯(誤り)につくと読むのかなと思う。真実・真理というものは間違いなく存在するが言葉では言い表せない。言い表せないけれど言葉にしなければ伝えることができない。苦心惨憺して言葉にしてもそれは真実・真理そのものを伝えるものにはならない。極端に言えば「誤って」しまうものになる。けれど何とか伝えようと一生懸命に努力する。それが将錯就錯ということではないかと思っている。

 インドにはなかったと安易に考えてその意味を深く知ろうとせず放置してしまえば、それは外道に陥ることだ。

 我々の心が仏である。これはどういうことなのか。心が即ち仏ならば仏道を学ばなくてよい、修行などいらないことになるのではないか。この後道元禅師が解説をされる。

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