第349話 身心学道その三十七 坐禅の姿勢が全て

 前回で身心学道の巻は終わり。

 重要なことは身体と心両方で仏道を学ぶということだ。人間は身体と心を持っているのだから当たり前だと言えば当たり前だが。

 ともすると仏教、仏道を心の側、精神面だけで捉え勝ちだと感じる。

 もちろん精神面も大事だ。しかし人間は身体を持っている。身体を疎かにしては何もできない。

 心については何よりも菩提心ぼだいしんが要だ。菩提心とは真実・真理を知りたいと願う心だ。菩提心無しには何も始まらない。

 仏教、仏道を精神面から捉えて、何が起こっても冷静沈着、平常心へいじょうしんでいられることのように言うことがあるが、そんなものは仏教、仏道と関係ない。人間は恐怖し、怒り、喜び、悲しむものだ。大事なのは正しく恐怖し、怒り、喜び、悲しむことだ。極端になってはいけないだけだ。仏教での「平常心びょうじょうしん」とはありのままに現実を捉えることができる心の状態なのだと思っている。

 身体について言えば、坐禅の姿勢を取ること。これに尽きる。坐禅さえすれば身体も心も大宇宙の真実・真理と一体となる。身心学道も突き詰めれば坐禅するということではないか。

 坐禅の姿勢を取ること、坐禅すること無しに仏教は絶対に理解できない。

 私は毎日30分は坐禅するようにしてきたが、このところ朝昼晩の3回30分坐禅するようにした。すると身心が今までよりも楽になってきたと感じる。身体の歪みや心の歪みの根源が修正されてくる感じがする。やはり坐禅を数多くやらねばいけないと今更ながら感じている。

 仏教は坐禅した身心でしかわからない。「読む坐禅」なんてことを言う人がいるようだが、まったく頓珍漢である。坐禅は足を組み、手を組み、背筋を伸ばしてじっと坐る以外にあるわけがなかろう。坐禅せずに文字ばかり読んでいると妄想に囚われるだけである。

 繰り返して言う。坐禅すれば大宇宙の真実・真理と一体となる。その身心であれば正しく生きることができるのだ。

 

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