第348話 身心学道その三十六 非想非々想
「平坦々地、それ
坐禅しながら過ごす日常生活は平坦な土地を進むようだけれどもそれが非常に高いそそり立つ壁のようなものであったりする。非常に高いそそり立つ壁に向かって生きているようだけれどもそれは平坦な土地を進むようなものであったりする。このようなことであるから、南州には南州の生活があり北州には北州の生活があるのである。これを取り上げて仏道を学ぶのである。非想つまり考えるということではないや非々想つまり考えるのではないということも超越した境地(坐禅の境地)の骨髄ともいうべき重要なことがあり、これを取り上げて仏道を学ぶのである。
我々が生きるこの日常生活は平坦なように見えても実は非常な危険、困難を伴っているものだと思う。ちょっとしたことで危険にさらされてしまう。だから瞬間瞬間を一生懸命に生きなければいけない。一方で非常に困難な状態だと思えても一生懸命に行動して行く中ですんなりとうまくいったりもする。人それぞれに色々な境遇があり、その中で瞬間瞬間を生きていく。
仏教は日常生活を正しく生きるためのものだ。訳のわからない高尚、難解な理屈や精神論ではない。非想非々想というとひどく難しく感じるけれど、これは坐禅の境地、坐禅した身心の状態だと考えていいと思っている。
坐禅した身心で大宇宙の真実・真理と一体となって生きる。それが全てである。そう思っている。
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