第345話 身心学道その三十三 ひたすら死ぬ

 「圜悟禅師いはく、「生也全機現しょうやぜんきげん死也全機現しやぜんきげん逼塞太虚空ひっそくだいこくう赤心常片々せきしんじょうへんぺん(生も全機現なり、死も全機現なり。太虚空に逼塞し、赤心常に片々なり」。この道著どうじゃ、しづかに功夫点撿すべし。圜悟禅師かつて恁麼いふといへども、なほいまだ生死の全機にあまれることをしらず。」

 圜悟克勤えんごこくごん禅師の言うことには「生は全機能の発現であり、死も全機能の発現である。大宇宙全体に行き渡っており、誠実に真実・真理を求める心は常に一つ一つの存在である」。この言葉を心を落ち着けて繰り返し点検しなければいけない。圜悟禅師はかつてこのように言っているけれども、それでもなおまだ生死は全機能という言葉以上の大きさを持っていることを知っていない。

 生也全機現死也全機現。生きているときは一生懸命に生きればいい。生きているということは全機能が発現しているのだ。ひたすら生きればいい。死がどのようなものか生きている間はわからないけれど死ぬときは死ぬときでひたすら死ねばいい。死も全機能の発現なのだから。宇宙一杯に生き、宇宙一杯に死ねばいい。誠実に一生懸命生きて死ねばいい。そう思っている。

 道元禅師は冷静に評価をされる。圜悟克勤禅師の言葉を評価しているけれど、まだ不十分だとしておられる。生死は全機現という言葉では言い表せないものだと書いておられる。

 言葉というものには限界がある。大宇宙の真実・真理は存在する。しかし言葉では言い表せない。だから坐禅して身心を信実・真理と一体にするしかないのだ。

 そうは言っても言葉で表現しなければ伝わらないのも事実だから、何とか伝えようとされたものが正法眼蔵であり祖師方の言葉であり、経典である。正法眼蔵が難解なのは言葉では言い表せない真実・真理を言葉で伝えようとしているからだと思う。ではどうしたらよいか。坐禅すれば良い。坐禅して真実・真理と身心が一体となった状態ならば正法眼蔵に書かれていることが身心で感じとることができる。坐禅せずに言葉だけで理解するのは不可能だ。もしわかったと思ってもそれは妄想に過ぎないのだ。

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