第343話 身心学道その三十一 生死ともに凡夫のしるところにあらず

 「(面々みな生死しょうじなるゆゑに恐怖くふすべきにあらず)ゆゑいかんとなれば、いまだ生をすてざれども、いますでに死をみる。いまだ死をすてざれども、いますでに生をみる。生は死を罣礙けいげするにあらず、死は生を罣礙するにあらず、生死ともに凡夫のしるところにあらず。」

 (凡夫も聖者もみんなそれぞれ生死のなかにいるのだから取り立てて恐れなくてよい)その理由はどういうものかと言えば、いまだに生を捨ててはいないけれども今この瞬間に既に死を見ているのだし、いまだ死を捨ててはいないけれど今この瞬間に生を見ているからである。生は死を邪魔するものではないし、死は生を邪魔するものではない。生死は両方とも凡夫が知るところではないのだ。

 我々は瞬間瞬間を生きている。瞬間瞬間を生きるということは、今この瞬間存在するが次の瞬間には消え去ってまた瞬間に生きるとも言えるのではないか。瞬間瞬間生まれて消滅することを繰り返す。このことを「「いまだ生をすてざれども、いますでに死をみる。いまだ死をすてざれども、いますでに生をみる」と表現されているのだと思う。

 生と死は対立するものではない。生も死も人間のあり方である点で同じである。だから「生は死を罣礙けいげするにあらず、死は生を罣礙するにあらず」なのだ。

 生も死もこの瞬間のあり方なのだ。それは事実としてありのままに受け入れればいいだけのことだ。生死を脳味噌であれこれいじくり回すようなことをしても無駄なことだ。「生死ともに凡夫のしるところにあらず」だ。

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