第342話 身心学道その三十 生死を恐怖すべきにあらず

 「「生死去来真実人体しょうじこらいしんじつにんたい」といふは、いはゆる生死は凡夫の流転るでんなりといへども、大聖だいしょうの所脱なり。超凡越聖ちょうぼんおっしょうせん、これを真実体とするのみにあらず。これを二種七種のしなあれど、究尽するに、面々みな生死しょうじなるゆゑに恐怖くふすべきにあらず。」

 「生死去来真実人体」というのは同言うことかと言えば、いわゆる生死は凡夫が流されたり転んだりの日常生活であるということであるけれども、そのような日常生活を偉大な聖者も経験し抜け出したのである。凡夫を超え聖者も越えるということを真実体とするのみではない。生死には二種とか七種とかの分類があるけれど、突き詰めるならば、凡夫も聖者もみんなそれぞれ生死のなかにいるのだから取り立てて恐れなくてよいのである。

 人間は生きてそして死ぬ。これは凡夫だろうが悟ったとか言っている人間だろうが変わることはない。生まれてから死ぬまでの間流転し続ける訳だが、その中で仏教に出会い坐禅することによって真実・真理と一体となることができる。

 仏教では生死を二種類、七種類に分類するそうだ。私はその内容を知らない。勉強した方が良いのだろうけど、道元禅師が「究尽するに面々みな生死」とおっしゃっているので今のままでよいことにする。

 時々「私は生死を超越した」などとさも凄そうに言う人間がいるが、そんなことはどうでもよろしい。「超凡越聖せん、これを真実体とするのみにあらず」だ。超越しようがしまいが、誰であろうと生きとし生けるものは生死の中にあるのだ。ひたすら生きてひたすら死ねば良いのだ。

 人間は生きて死ぬというありのままのことをありのままに受け取り、坐禅して正法眼蔵を読んでいれば良いのだ。そう思っている。

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