第341話 身心学道その二十九 進歩退歩学道

 「たとひ三大阿僧祇劫あそうぎこう、十三大阿僧祇劫、無量阿僧祇劫までも捨身受身しもてゆく、かならず学道の時節なる進歩退歩学道なり。礼拝問訊らいはいもんじんするすなはち、動止威儀なり。枯木を画図わづし、死灰を磨甎ませんす。しばらくの間断けんだんあらず。暦日は短促なりといへども学道は幽遠ゆうおんなり。捨家出家せる風流たとひ蕭然しょうぜんなりとも、樵夫そうふに混同することなかれ。活計たとひ競頭きんとうすとも佃戸でんこに一斉なるにあらず。迷悟善悪の論に比することなかれ、邪正真偽のきわにとゞむることなかれ。」

 たとえ三大阿僧祇劫、十三大阿僧祇劫、無量阿僧祇劫というような無限に近いような時間であろうと、ある時は身を捨てるような覚悟である時は身を大事に保持しながら進んでいくというのが間違いなく仏道を学んでいる時節であり、その中で進んだり退いたりしながら仏道を学ぶのである。礼拝したり師に質問したりするのはすなわち動作をしている時も止まっている時も仏としての威儀のある状態である。枯木のように静かにじっと坐禅し、死灰で瓦を磨くかのような坐禅をする。ちょっとの間も途絶えることのなく仏道を学ぶのである。暦で見れば時間は短いものであるけれども仏道を学ぶことは言葉で言い表すことのできない永遠のものである。家を捨て出家している様子ははたとえひっそりと物寂しいものであるとしても山奥の木こりの寂しさと同じようなものだと考えてはいけない。色々やらなければいけないことが起こるけれど、小作農のやらねばならないことと同じものではない。迷っているとか悟っているとか善であるとか悪であるとかそんなことを議論することと比べてはいけない。邪か正か真か偽かどうかなどという議論の周辺でうろうろしてはいけない。

 「進歩退歩学道なり」坐禅して正法眼蔵を読む。これを毎日続けていく。生きていれば色々なことが起こる。ずっと順風満帆なんて訳にはいかない。進んだと思うこともあるし、ああ駄目だなあと思う時もある。それが当たり前だ。時々仏教を信仰すると楽に穏かに生きられるようになるみたいなことを言ってるのを耳にするが、そんな筈がなかろう。苦しいこと辛いこと悲しいことが起こるに決まっている。その中で坐禅を続けることによってそれらがしのげるようになるだけのことだ。

 「枯木を画図わづし、死灰を磨甎ませんす」。坐禅はただひたすら坐禅するだけだ。その姿は枯木のようであるかもしれないし、坐禅は死灰で瓦を磨くようなよくわからないものであるかに見える。しかしただひたすら坐ればいいのだ。つべこべ脳味噌でつまらぬことをこねくり回してはいけない。正しいとか正しくないとか妄想してはいけない。「迷悟善悪の論に比することなかれ、邪正真偽の際にとゞむることなかれ」だ。

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