第333話 身心学道その二十一 怪しむのも平常

 「いまこの蓋天蓋地は、おぼえざることばのごとし、噴地ふんぢの一声のごとし。語等なり、心等なり、法等なり。寿行生滅じゅぎょうしょうめつの刹那に生滅するあれども、最後身さいごじんよりさきはかつてしらず。しらざれども、発心すれば、かならず菩提のどうにすゝむなり。すでにこのところあり、さらにあやしむべきにあらず。すでにあやしむことあり、すなわち平常なり。」

 今この天全体大地全体は思い出すことができない言葉のようであり、くしゃみの一声のようでもある。このような天全体大地全体の中では言葉は均衡の取れたものであり、心も均衡の取れたものであり、法(森羅万象)も均衡の取れたものである。生きていくということは瞬間瞬間に生滅しているのであるけれども、そのことは最後身(修行が完成した身)に至る前には知ることはない。知ることはないけれども、真実・真理を知りたいと発心すれば、真実・真理の道に進むのである。まさしくこのところ(真実・真理の道)があり、少しもあやしむようなことではない。まさしくあやしむことがあり、それがすなわち平常、ありのままの普通のことなのである。

 天全体大地全体、蓋天蓋地は言葉ではなんとも表現しようがない。「おぼえざることばのごとし」だ。けれど一方でありのままにここにある。具体的な姿を現している。その点ではくしゃみするというような具体的なことでもある。「噴地ふんぢの一声のごとし」。

 蓋天蓋地の中ではすべてが真実・真理の姿を現している。真実・真理の状態だから、全てが安定し均衡がとれている。「語等なり、心等なり、法等なり」。

 人間は瞬間瞬間、刹那に生まれ死ぬことを繰り返しているとも言えるのではないか。瞬間瞬間を生きる。今の瞬間を生き、次の瞬間に過去となって消え去る。生きるとは瞬間瞬間の積み重ねだ。

 「最後身さいごじんよりさきはかつてしらず」だけれど、上記では最後身を修行が完成した身とし、「さきは」を最後身に至る前は、と読んだ。ただ、ここは「最後身」を生きている最後の身として「さきは」を最後身の後だと読むことができるようにも思う。「生きている最後の身より先のことはわからないけれど」とも読める気がする。

 どちらの読み方にせよ、真実・真理を知りたいという思うこと、つまり発心すれば菩提のどう、真実・真理の道に進むことができるのだ。

 このことを怪しんではいけない。しかし怪しんだとしても、それはそれでふつうのこと、ありのままのこと、平常なのだ。怪しむ気持ちがあったとしてもそれも普通のことだ。

 単純に怪しむなとは言わない。怪しむことだってあるだろう。しかしそれも平常なのだ。普通のことだ。

 ひたすら真実・真理を知りたいと願って坐禅すればいい。そう思っている。

 

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