第326話 身心学道その十四 たれか著眼看せん

 「露柱ろしゅと同参せず、燈籠とうろう交肩こうけんせず。かくのごとくなるゆゑに赤脚走しちきゃそうして学道するなり、たれか著眼看じゃげんかんせん。翻筋斗ほんきんとうして学道するなり、おのおの随他去ずいたこあり。このとき、壁落へきらくこれ十方を学せしむ、無門これ四面を学せしむ。」

 地面に立つ柱と一緒にはならず、燈籠と肩を交えることはない。このようなことであるので、裸足で走り回るように一生懸命に仏道を学ぶのである。そのことを誰かが見るということがあるだろうか。とんぼ返りして仏道を学ぶのである。それぞれが自分以外の他の存在に従っていくということもある。この時、壁が崩れ落ちてひらけた十方を学ばせるということがあり、門が無くなり開けた四面を学ばせるということがあるのである。

 ここは二つの学び方を説かれていると思っている。一つは自己としてひとり黙々と、誰かに評価されるなど自分の外側のことなど気にすることなく一生懸命に学んでいくということ。

 もう一つはひとり黙々と学ぶことからとんぼ返りをして、師なり同志とともに学んでいくということ。

 学ぶことには二つの側面がある。両方ともに必要だということだろう。この時、壁も門も消えてなくなり真実・真理の大宇宙が展開されるのだ。

 私は仏教について学問の師はいない。宗門とも関係がないのでこの面の師もいない。しかし、書物では澤木興道氏や西嶋和夫氏、水野弥穂子氏の恩恵を受けている。道元禅師は師につくようにとおっしゃっていてこの点では私は不十分なのだろう。けれど私の性格上これは仕方ないと諦めている。

 また、この部分で印象に残るのは「たれか著眼看じゃげんかんせん」だ。だれも見ていなくても黙々とやっていく。今の世の中、人に見てもらいたい、注目されたいという人間がうようよしている。しかし真実・真理は自分が自分で追及するものだ。他人など関係ない。改めてそう思う。

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