第325話 身心学道その十三 牆壁瓦礫これ心なり

 「学道は恁麼なるがゆゑに、牆壁瓦礫しょうへきがりゃくこれしんなり。さらに三界唯心さんがいゆいしんにあらず、法界唯心ほうかいゆいしんにあらず、牆壁瓦礫なり。咸通かんつう年前につくり、咸通年後にやぶる、拕泥滞水たでいたいすいなり、無縄自縛むじょうじばくなり。玉をひくちからあり、水にいる能あり。とくる日あり、くだくるときあり、極微ごくみにきはまる時あり。」

 仏道を心で学ぶというのはこのようなことであるので、垣根や壁や瓦や小石これらが心である。決して心は三界唯心であるとか法界唯心などではなく、目の前の垣根や壁や瓦や小石なのである。咸通(中国の年号)年の前に作り咸通年の後に破る(注:疎山光仁禅師が法身辺事を咸通年前に作り、咸通年後には法身辺事破って法身向上事を得たという逸話)ということがあるが、それは泥まみれずぶ濡れである日常生活の中の事であり、縄はないのに縛られているような日常生活の中のことなのである。心は玉を引き寄せる力があり、水の中に入って玉を探す能力がある。心は大宇宙の中に溶け込んで一体となる日があり、細かく砕けてあらゆるものと一体となる時があり、極小という単位に行きつくこともある。

 三界唯心、法界唯心の詳しいことはわからない。要は三界(欲界、色界、無色界)や法界(森羅万象の存在する世界)と心は別物ではないということなのだろうと思っている。そしてここではそんな理屈は要らないとおっしゃっている。 

 ただただ目の前の現実のありのままが心なのだ。

 現実の世界ありのままだから、そこで生きていくということはずぶ濡れ泥まみれ「拕泥滞水」であり、生きている限りいろいろな束縛があるのも事実だから「無縄自縛」なのだろうと思っている。そしてこのように生きていくことに価値がある。そこに真実・真理がある。「玉をひくちからあり、水にいる能あり」なのだ。そう思っている。

 坐禅しながら、ずぶ濡れ泥まみれで生きていこうと思う。

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