第324話 身心学道その十二 心学道

 「かくのごとくのしんみづから学道することを慣習かんじゅうするを、心学道といふと決定信受けつじょうしんじゅすべし。この信受、それ大小有無だいしょううむにあらず。知家非家ちけひけ捨家出家しゃけしゅっけ(家、家に非ずと知りて捨家出家す)の学道、それ大小の量にあらず、遠近おんごんの量にあらず。鼻祖鼻末にあまる、向上向下にあまる。展示あり、七尺八尺なり。投機あり、為自為他なり。恁麼なる、すなはち学道なり。」

 このように心そのもので仏道を学ぶことを身につけ慣れることが心で仏道を学ぶことだとはっきり思い定め信じ受け入れなければいけない。この信じ受け入れることは大きい小さい有る無いという人間の思い計りの対象ではない。世俗の家は真の家ではないと家を捨て出家して仏道を学ぶこと、それは大きい小さいと量れるものではなく、遠い近いと量れるものではない。始まり(鼻祖)とかその末(鼻末)だとかを超越し、さらに上を目指すとか足下を見つめるとかを超越する。自分自身のことを話して展開することもあり、それは七尺八尺というような具体的なことである。指導する(投機)ことがあり、それは自分のためであり他人のためでもある。このようなことがすなわち仏道を学ぶということである。

 坐禅の境地を述べられているのだと思う。坐禅することが修行であり悟りである。坐禅して大宇宙と一体となる、真実・真理と一体となる。その時は「大小の量にあらず、遠近の量にあらず」だ。人間の思い計りが全て抜け落ちた状態だ。

 その時に話をすることもあるだろうが、それはごく普通の現実的なことになる。観念的抽象的なものは抜け落ちている。だから七尺八尺という具体的なものだ。

 人を教えることもあるだろう。それは他の人の為でもあり、自分の為にもなることだ。

 坐禅して日常生活を送っていくことが仏道を学ぶことなのだ。それが心学道なのだ。そう思っている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る