第322話 身心学道その十 生死と増減

 「日月星辰は人天にんでんの所見不同あるべし。諸類の所見おなじからず。恁麼なるがゆゑに、一心の所見これ一斉なるなり。これらすでにしんなり。ないなりとやせん、なりとやせん。らいなりとやせん、なりとやせん。生時しょうじは一点をぞうずるか、ぞうぜざるか。死には一塵いちじんのさるか、さらざるか。この生死および生死のけん、いづれのところにおかんとかする。」

 太陽、月、星について人間界と天界では見るところが異なるだろう。様々なものの見るところは同じではない。そのようにそれぞれのあり方によって色々であるので、一つの心のあり方で見るところはすべて等しいのである。これら見るところのものものが既に心なのである。心の内側のことなのか、外側なのか。やって来るものなのか、去っていくものなのか。生まれた時は一点の増加があるのか、増加しないのか。死の時は一つの塵が去っていくのか、去らないのか。この生死および生死の考え方をいずれのところに置こうとするのだろうか。

 坐禅した身心は大宇宙と一体となりすべてのものがありのままに見えるようになる。すべてはありのままであり大小とか高低とかの人間の思い計りは関係なく存在する。そのことが「一心の所見これ一斉なるなり」ということなのだろう。

 この状態は心とすべての存在との継ぎ目がなくなった状態だ。心があるから存在物がある。存在物があるから心が在るとわかる。「これらすでにしんなり」だ。

 この時、心の外側だとか内側だとかを問題にすることはなく、来るとか去るとかいう必要もない。

 心というものが有り、人間が生まれた時に心も生まれるのだとして、それは大宇宙の中に一点が増加することなのか、増加はしないのか。死ぬ時生まれた心も消え去るのかそうではないのか。生死の問題をどう考えたらよいのか。

 人間は大宇宙の一部である。大宇宙の一部が人間という形を一時的に取っているだけだと考えるならば、大宇宙そのものは増加も減少もしない。人間が死に人間の形がなくなり大宇宙に戻るのならば増加も減少もしない。ここの後半部分はこのようなことを説いておられるのではないかと思っている。

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