第321話 身心学道その九 山河大地日月星辰

 「しばらく山河大地日月星辰せんがだいちにちがつしょうしん、これしんなり。この正当恁麼時しょうとういんもじ、いかなる保任ほうにんか現前する。山河大地といふは、山河はたとへば山水なり。大地は此処のみにあらず、やまもおほかるべし、大須弥小須弥だいしゅみしょうしゅみあり。おうに処せるあり、しゅに処せるあり。三千界あり、無量国あり。しきにかゝるあり、くうにかゝるあり。河もさらにおほかるべし、天河てんがあり、地河ぢがあり、四大河しだいがあり、無熱池むねつちあり。北俱蘆洲ほくくるしゅうには四阿耨達池しあのくだっちあり。海あり、池あり。はかならずしもにあらず、かならずしもにあらず。土地どぢもあるべし、心地しんぢもあるべし、宝地ほうぢもあるべし。万般ばんぱんなりといふとも、なかるべからず、くうとせる世界もあるべきなり。」

 言ってみるならば山や河や大地や太陽、月、星は心である。まさにこの時どのような状態が自分の目の前に現れるのか。山河大地というのは、山河は例えば山であり水である。大地はこの場所だけではなく、山もたくさんあるだろう。大須弥山も小須弥山もある。横に連なる山もあり、縦に連なる山もある。三千世界というものもあり無量国というものもある。物質として有ることもあり、空間に有ることもある。河も同じようにたくさんあるだろう。天の河もあり、地の河もあり、南贍部洲なんせんぶしゅうには四大河があり、無熱池もある。北俱蘆洲には四阿耨達池がある。海があり、池がある。地と言っても必ずしも土ではないし、土であれば地であるということでもない。土の地もあるだろうし、心の地もあるだろうし、宝の地もあるだろう。様々であるとしても、地がないということはないはずであり、空を地としている世界もあるだろう。

 「山河大地日月星辰せんがだいちにちがつしょうしん、これしんなり」。私の思うところを書く。山河大地日月星辰は大宇宙の中に存在する。大宇宙の中の一部分であり大宇宙そのものである。人間も大宇宙の中に存在し、大宇宙の一部分であり大宇宙そのものである。人間の心も大宇宙そのものである。心も山河大地日月星辰も大宇宙そのものなのだから心は山河大地日月星辰となる。

 この後に道元禅師は大地と山河について様々な形を示される。ここのところは、人間の思い計りの固定観念に囚われてはいけないということを説かれているのではないだろうか。坐禅して大宇宙そのものとなった時にはあらゆるものを包含した世界が展開される。山河大地と簡単に言うことはできない。固定観念から解き放たれなければいけない。そういうことではないかと思っている。

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