第320話 身心学道その八 仏祖の鼻孔驢馬の脚蹄

 「かくのごとく学道するに、有功ゆうこうに賞おのづからきたり、有賞ゆうしょうに功いまだいたらざれども、ひそかに仏祖の鼻孔びくうをかりて出気すいきせしめ、驢馬の脚蹄きゃくていねんじて印証せしむる、すなはち万古ばんこ榜様ぼうようなり」。

 このように仏道を学んでいく中で、工夫(修行)することによって、それに見合った結果(賞)は自然とやってくるのだが修行はまだ足りていないとしても、知らず知らずに仏祖と一体となって仏道の鼻を借りて呼吸をし、(当時の宋の国では日常生活でありふれた存在である)驢馬の脚を取り上げて結果を実証してみせる、これらがすなわち遥か過去からの手本ということになる。

 修証一如しゅしょういちにょという。修行とその結果は一つのもの。坐禅することが修行であり結果なのだ。結果を悟りと言ってもいい。悟るために坐禅するのではない。坐禅することが悟りなのだ。仏祖と同じになるのだ。私は悟りという言葉が嫌いなのであまり使いたくないが。

 仏道修行(学道)していれば成果は自然とやってくる。まだまだ自分は修行が不十分だと思っていても、修行しているということは仏祖と同じ状態になっているということなのだ。そしてそのことは同時にこの日常生活の中でせっせと一生懸命に行動して行くということなのだ。

 仏教は人間がこの現実世界で真実・真理に従って一生懸命に生きていく方法を教えるものなのだと思っている。だから仏祖と同じ状態であると同時にこの日常生活において真実・真理を実践していくということになるのだ。そう思っている。

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