第319話 身心学道その七 思量箇不思量底

 「踰城ゆじょう入山にっさんする、出一心しゅついっしん入一心にゅういっしんなり。山の所入しょにゅうなる、思量箇不思量底しりょうこふしりょうちなり。世の所捨なる、非思量なり。これを眼睛がんぜいだんじきたること二三斛ごく、これを業識ごっしきに弄しきたること千万端せんばんたんなり」。

 釈尊が城を出て山に入ったのは、出ることというただ一つの心であり、山に入ることというただ一つの心である。山が入られるところとなったのは考えるものではないこと(不思量底)を考える(思量)ということである。世は捨てられるところであるが、考えるということではない(非思量)。これらのことを眼球のように大事なものとして丸めて塊にしたものが二三斛という大量なものになり、これらを意識のなかで扱うことは非常に多くのあり方があるのだ。

 「思量箇不思量底」。山に入ろうと心を決める。これは思量なのだろう。しかし一方で何故山に入ろうと思ったのか、入らねばならないと思ったのか。これは説明のつかない何かがそうさせたとしか言いようがないのかもしれない。これを表現するのが思量箇不思量底なのではないか。

 坐禅している時には様々なことが頭に浮かんでくる。これを思量と言えば言えるかもしれない。しかしその考えを追いかけれることはしない。浮かんでは消えることに任せている。これは不思量と言えるかもしれない。なので思量箇不思量底ということになるのではないか。

 世を捨てたというのは、真実・真理を知りたいということから自然とそうなるしかなかったからで、だから非思量、考えるということではないということなのではないか。

 このようなことを繰り返し繰り返し行っていくことを「眼睛がんぜいだんじきたること二三斛ごく、これを業識ごっしきに弄しきたること千万端せんばんたんなり」と表現されたのではないだろうか。

 これらのことが展開されるのは心というものがそうさせている。私はこのように理解している。

 

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