第312話 仏性その百二十一 三頭八臂

 「無始劫来むしこうらいは、痴人ちにんおほく識神を認じて仏性とせり、本来人とせる、笑殺人しょうしゃじんなり。さらに仏性を道取するに、拕泥滞水たでいたいすいなるべきにあらざれども牆壁瓦礫しょうへきがりゃくなり。向上に道取するとき、作麼生そもさんならんかこれ仏性。還委悉麼わんいしちま(また委悉すや)。三頭八臂さんとうはっぴ」。

 始めもわからないはるか昔から、愚かな多くの人が意識・精神を仏性であるとし、本来の人であるとしているのは笑い話である。さらに仏性とはなにかを言うとするならば、泥まみれずぶぬれではないにしても、垣根であり壁であり瓦であり小石である。さらに仏教の修行を重ねた時に言うならば、仏性とはいかなるものなのか。何回も繰り返して細かく考えただろうか。頭が三つで腕が八本。

 仏性とは意識、精神の働きではない。仏性は大宇宙の全存在である。具体的に言えば垣根であり壁であり瓦であり小石である。

 このことを実感として受け取るために坐禅するのだ。坐禅した時、大宇宙と一体となる。自分と大宇宙の境目がなくなる。全ての存在がありのままに現れてくる。それは仏性が現れてくることなのだ。そう思っている。

 仏性を感得するために坐禅を続けていく。それが「向上に委悉する」ということではないだろうか。そうしてみたときに仏性とは何か。それは三頭八臂だと道元禅師はおっしゃる。頭が三つで腕が八本。なんだこれは。そうなのだ。「なんだこれは」なのだ。仏性は言葉ではなんとも言い表せないものなのだ。人間の思いはかりでとらえられるものではないのだ。坐禅して心身で感得するものなのだ。

 三頭八臂は無理矢理に理屈をつけなくていいのだと思っている。訳のわからないものとしておけばいいんじゃないか。道元禅師は面白おかしく三頭八臂とお書きになったのではないか、そんな感じがしている。

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