第311話 仏性その百二十 仏性有仏性無

 「風火の散未散を論ずることあらば、仏性の散未散なるべし。たとひ散のときも仏性有ぶっしょううなるべし、仏性無ぶっしょうむなるべし。たとひ未散のときも有仏性なるべし、無仏性なるべし。しかあるを、仏性は動不動によりて在不在し、識不識によりて神不神なり、知不知に性不性しょうふしょうなるべきと邪執じゃしゅうせるは、外道げどうなり」。

 風火が散るとか散らないを論ずることがあるならば、それは仏性の散未散ということであろう。たとえ散という状態であっても仏性は有でもあるし、仏性は無でもある。たとえ未散という状態であっても有である仏性であり、無である仏性である、そうであるのに、仏性は(たとえばみみずが)動く、動かないによって存在したりしなかったりし、意識するかしないかによって神秘的な働きがあったりなかったりし、知覚するかしないかで仏性であったりなかったりすると間違えて執着するのは仏教ではない。

 仏性=全存在であるから物質の構成要素である風火を論じることは仏性を論じることになる。

 物質がどのような状態になっても、仏性であることは変わることはない。ありのままであり、ありのままであるならば、有るとか無いとかわざわざ区別する必要はない。ただありのままにあるだけだ。だから仏性有であり、仏性無であるということになる。

 そこに、人間の思いはかりで「動く」「動かない」などということを持ち込む必要はない。意識とか知覚だとかを持ち込む必要はない。ただありのままにあるものをありのままに心身で受け止めればいいのだ。そのために坐禅するのだ。

 

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