第305話 仏性その百十四 仏性が二つに切れる

 「未審みしん仏性在阿那箇頭ぶっしょうざいおなことう」。「仏性斬為両段ぶっしょうぜんいりょうだん未審みしん蚯蚓在阿那箇頭きゅういんざいおなことう」といふべし。この道得どうては審細にすべし。「両頭俱動りょうとうくどう仏性在阿那箇頭ぶっしょうざいおなことう」といふは、俱動ならば仏性の所在に不堪ふかんなりといふか。俱動なれば、動はともに動ずといふとも、仏性の所在はそのなかにいづれなるべきぞといふか」。

 「いぶかしい、仏性はどちらにあるのか」。これは「仏性が切れて二つになった。いぶかしい、みみずはどちらにあるのか」と言うのが適当である。このように言うことを細かくじっくり考えなけれはいけない。「二つとも両方動いている、仏性はどちらにあるのか」と言うのは、二つとも動くならば仏性が所在することを二つとも持ちこたえられないと言うのか。二つとも動くのなら、動くということは二つとも動くと言うけれど、仏性の所在はそのどちらのなかにあるべきかと言うのか。

 道元禅師は次から次へと問いかけてこられる。いろいろな角度から、色々な視点から。

 この現実世界と言うのは複雑怪奇で、微妙なものだと思う。単純にこうだと決めつけれことはできない。仏教は様々な視点を提供するものだと思っている。

 「みみずが切れて二つになった、仏性はどちらにあるか」を「仏性が切れて二つになった、みみずはどちらにあるか」と言い換えている。この世界、大宇宙の全存在は仏性である。であれば、みみずが切れる=仏性が切れるということになる。

 切れたみみずが二つとも動いている。ここで仏性が片一方にだけあると何故考えるのかと道元禅師は問いかけておられる。全存在が仏性ならば切れたみみずの一方にだけ仏性が有るとするのはおかしいということになるだろう。

 この箇所についての私の考えは上に書いたようなものである。

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