第304話 仏性その百十三 定動智抜

 「両頭俱動りょうとうくどう」といふ両頭は、未斬みぜんよりさきを一頭とせるか、仏向上を一頭とせるか。両頭の語、たとひ尚書の会不会ういふういにかゝはるべからず、語話をすつることなかれ。きれたる両段は一頭にして、さらに一頭のあるか。その動をいふに俱動といふ、定動智抜じょうどうちばつともに動なるべきなり」。

 「両頭俱動りょうとうくどう」というこの両頭は、ミミズが切られる前を一頭、ひとつとしているのか、坐禅して仏となった状態でさらに修行している状態で一頭だとしているのか。この両頭という言葉について、例え尚書が理解しているか理解していないかに関わらず、この言葉を捨てておいてはいけない。切れた二つ、両段は一頭だとしてさらに一頭ということがあり得るのか。その動いていることを言うのに俱動ともに動くというが、坐禅して身心がバランスした定という状態の時に正しく動くことができその時には智慧が働いてものごとに対処できる訳だが、これは共に動である。

 まずは両頭について、二つ、一つとはどういうことかについて考えてみろと道元禅師は問を投げかけてきておられる。二つがあるのなら一つがあることになるが、そのひとつとは何か。切れる前が一つなのか。坐禅をずっと続けていく中で一つということがあるのか。二つに切れているけれどもこれは一つだというのならば、その他に一つというものがあるのか。道元禅師は様々な問いを投げかけてこられる。

 さらに動とは何かと問いかけておられる。

 坐禅して身心がバランスし大宇宙と一体となった時、初めて正しく動くことができ、この状態になると智慧、直感が働くようになる。こうなれば活き活きと生きることができる。これが動であるということになる。

 ここは難しい箇所だと思う。狭い観念に囚われずに様々に広く柔軟に考えなさいというように受け止めればいいのかなと思っている。

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