第300話 仏性その百九 驢前馬後漢

 「脱体とったい行履あんり、その正当覆蔵ふぞうのとき、自己にも覆蔵し、他人にも覆蔵す。しかもかくのごとくなりといへども、いまだのがれずといふことなかれ、驢前馬後漢ろぜんばごかん。いはんや、雲居高祖うんごこうそいはく、「たとひ仏法辺事を学得がくてする、はやくこれ錯用心了也さくようじんりょうや」。

 体が脱け落ちた状態(坐禅した心身の状態)での行動は、真実・真理がまさに世界に覆い被さっている時であり、自己にも覆い被さり、自分以外の人間にも覆い被さる。そしてこのようなことであるのに、いまだに真実・真理を得ることを邪魔するものから逃れられないなどと言ってはいけない。驢馬の前や馬の後ろをうろうろする人よ。さらに言えば雲居道膺禅師が言っておられる、「仏法に関することを学び得たというならばもう既に間違った心の状態となってしまっている」と。

 坐禅すればそれがすべてだ。あれやこれや、うろうろおろおろする必要はない。坐禅した瞬間、この心身は真実・真理と一体となり、大宇宙の全存在が真実

・真理として現れてくる。この時に、頭の中でああでもない、こうでもないなどといじくり回すことに意味はない。ただ坐禅すればいいのだ。

 驢前馬後漢ということの正確な意味は知らない。私なりに思うのは、驢馬だろうか馬だろうかなどと考えてうろうろしても何も始まらない。どこかに行こうと思うなら乗ればいいだけのことだ。つまり頭の中で観念的にいくら考えてもしょうがない。乗るという行動を取ればいいのだ。

 仏教を学んだと頭の中で観念的に思ったとしてもそれは観念にすぎない。そういう観念がすでに誤りの一歩だ。坐禅という行動を取らなければいけない。坐禅しなければ仏法、仏教は絶対にわからない。

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