第299話 仏性その百八 脱体

 「故犯こぼんはかならずしも入皮袋にあらず、撞入這皮袋とうにゅうしゃひたいかならずしも知而故犯ちにこぼんにあらず。知而ちにのゆゑに故犯こぼんあるべきなり。しるべし、この故犯すなはち脱体とったい行履あんり覆蔵ふぞうせるならん。これ撞入と説著せつじゃするなり」。

 (真実・真理を)ことさらに犯す「故犯」は(仏性が)皮袋に入るとすることではない。撞入這皮袋(仏性が皮袋に入る)とすることが、知ってことさらに犯す「知而故犯」ではない。知っているからこそ(知而)ことさらに真実・真理を犯す(故犯)ということがありうるのである。知らなければいけない、この故犯、知ってことさらに犯すはこの体が脱落して行う行動すべてに覆い被さっているであろう。このことを撞入(仏性が入る)と説いたのである。

 ここは坐禅していないと難解というか、理解できないのではないかと思う。

 脱体とは、坐禅の境地である身心脱落だと思う。身心脱落とは坐禅して真実・真理と一体となること、大宇宙と一体となることだ。その瞬間、この身体、この心が脱け落ちる。澤木興道氏の「宇宙とぶっ続きになる」という感覚だ。普段執着している身心を手放す、そういう感じだ。坐禅しているとこういう境地になる。この時、真実・真理と一体となった時の行動は大宇宙と一体となっている。この時すべてのものに真実・真理が覆い被さっている。この時、故犯も真実・真理の中に含まれてしまう。「この故犯すなはち脱体の行履を覆蔵せるならん」。

 この状態を知ってことさらに真実・真理を犯す(故犯)のだ(このようなものとしか言い様のないもので敢えて言えば無だが、有でもあるとする)。「知而のゆゑに故犯あるべきなり」。

 このようなことだから、故犯は仏性が犬の皮袋に入るという小さなことではないし、仏性が犬の皮袋に入るということが知而故犯だという近視眼的な捉え方ではないのだ。

 坐禅しましょう。

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