第298話 仏性その百七 不死人は皮袋を離れない

 「いはんや欲識庵中不死人よくしきあんちゅうふしにん豈離只今這皮袋きりしきんしゃひたい(庵中不死の人をらんとおもはば、豈只今あにいまのこの皮袋ひたいをはなれんや)なり。不死人はたとひ阿誰おすいなりとも、いづれのときか皮袋ひたい莫離もりなる。」

 ましてや庵に住んでいる不死人を知ろうとするならば、どうしていま不死人はその皮袋を離れるということがあろうか。不死人はたとえ誰であろうと、一体いつこの皮袋を離れるということがあるだろうか。

 不死人とはどういう意味かよくわからない。死んでいない人、生きている人なのかなと思っている。

 ここで説かれていることは、我々はこの肉体つまり皮袋から離れて存在はしない、ということではないかと思っている。

 仏教は今この瞬間の現実をどう生きるかを教えるものだと思っている。

 坐禅していると、この世界は、大宇宙は真実・真理だと身心で感じる。真実・真理はある。しかし言葉では言い表せない。このようなものとしか言い様のないもので、敢えて言えば無だ。これこれですと示すことはできない。しかし存在する。坐禅しない限りこのことはわからないと思う。

 一方で今この瞬間、この身体で生きているのも事実だ。この身体を使って一生懸命行動して生きていかなければならない。有だ。

 無であり、有でもある。これが現実であり、事実だ。

 無でありかつ有である。これを統合して身心で感得するためには坐禅するしかないのだ。

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