第297話 仏性その百六 知りてことさらに犯す

 「趙州いはく、「為他知而故犯いたちにこぼんかれ、知りてことさらに犯すがためなり)」。この語は、世俗の言語としてひさしく途中に流布るふせりといへども、いまは趙州の道得どうてなり。この道得は疑著ぎじゃせざらん、すくなかるべし。いま一字のにゅうあきらめがたしといへども、入之一字にゅうのいちじ不用得ふようてなり」。

 趙州禅師が言うことには「為他知而故犯いたちにこぼんかれ、知りてことさらに犯すがためなり)」である。この言葉は、世俗での言葉として長いこと世の中に流布しているといえども、今は趙州禅師の言葉である。この言葉を疑わない者は少ないだろう。いま一字の入という言葉もはっきりとさせにくにいと言えるけれど、入という一字も不用なのである。

 「為他知而故犯」についての私が考えていることを書いてみる。

 仏性はこのようなものとしか言い様のないもので敢えて言えば無であると、これまで書いてきた。しかし一方で現に犬は犬として目の前に存在している。有だ。すべての存在は仏性とイコールだ。とすれば犬=仏性だから仏性も有ということも可能ということになる。つまり真実・真理としてはこのようなものとしか言い様のないもの、無ではあるけれど、現実には有ということも有り得る。このことを「(真実・真理を)知りてことさらに犯す」と表現されているのではなかろうか。そう思っている。

 すべての存在は仏性であるから、仏性=犬だ。であれば、仏性が犬という皮袋に「入る」などとわざわざ言う必要はない。従って「入之一字も不用得なり」なのだ。そう思っている。

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