第296話 仏性その百五 犬は犬として目の前にいる

 「僧いはく、「既有きう為甚麼却撞入這皮袋いじんもきゃとうにゅうしゃひたい」。

 この僧の道得どうては、今有こんうなるか、古有こうなるか、既有なるかと問取するに、既有は諸有に相似せりといふとも、既有は孤明なり。既有は撞入すべきか、撞入すべからざるか。撞入這皮袋とうにゅうしゃひたい行履あんり、いたづらに蹉過さこ功夫くふうあらず」。

 (趙州禅師が僧の問いに「有」と答えたので)僧は言った「有であるなら、仏性はどのようにして(犬の)皮袋に入ったのだろうか」。

 この僧の言葉は、(仏性は)今の有なのか、昔から有なのか、既に有であるのかと問うているのだが、既有は様々な有に似ているとは言うものの、既有(既に有)は独りはっきりと存在している。既有であるとして仏性は(犬という)皮袋に撞入(入り込む)することになるのか、撞入することにはならないのか。犬は撞入這皮袋(仏性が入り込んでいる)として行動しているのだから、そのことを訳も分からず間違えてあれこれ考えてはいけない。

 犬に仏性が有るとして、この有を巡って、今有るのか、昔から有るのか、既に有るのかとか頭の中でいじくり回す必要はない。犬は犬として目の前に現実に存在しているのだ。その現実を前にしてつべこべ理屈をこね回すことに何の意味もない。「いたづらに蹉過さこ功夫くふうあらず」だ。

 仏教は今この瞬間の現実をどう生きるかを説くものだと思っている。抽象的、観念的な頭の中の理屈に囚われてはいけない。この箇所はそういうことを言っているのだと思っている。

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