第295話 仏性その百四 この世界は単純ではない

 趙州有僧問、「狗子還有仏性也無くしわんうぶっしょうやむ(趙州に僧有って問ふ、「狗子にまた仏性有りやいなや」)」

 この問取は、この僧、搆得趙州こうてじょうしゅうの道理なるべし。しかあれば、仏性の道取問取は、仏祖の家常茶飯さはんなり。

 趙州いはく、「」。

 このの様子は、教家きょうけ論師ろんじ等のにあらず、有部うぶ論有ろんうにあらざるなり。すゝみて仏有ぶつうを学すべし。仏有は趙州有じょうしゅううなり、趙州有は狗子有くしうなり、狗子有は仏性有ぶっしょうなり。」

 趙州禅師にある僧が質問した、「犬に仏性は有るのか無いのか」。

 この質問は、この僧が趙州禅師をつかまえることができるものであろう。そうであれば、仏性について話したり質問したりするのは仏祖の日常茶飯のことなのである。

 趙州禅師の言うことには「有」であった。

 この有がどういうものであるかというと、経典を読んで議論する者たちが言う有ではなく、有部といわれる一派の人々が論じる有ではない。すすんで仏有とは何かを学びなさい。仏有ということは趙州有であり、趙州有ということは狗子有であり、狗子有ということは仏性有なのである。

 前回までのところで、「仏性とはこのようなものとしか言いようがないもので敢えて言葉にすれば無」であると書いてきた。そういうことであれば、有るとか無いとかを超越したものとしての無と書いた。

 これは真実・真理であると考えている。

 しかし一方で現実の世界において生きていれば、あらゆるものが存在している。つまり有である。

 仏教はこの現実の世界をこの生身の身心でいかに生きていくかの教えである。従って、「無」であるということだけで済ますことなどないのだ。

 抽象的、観念的なロジックの立場からすれば矛盾と見えるだろう。しかし、現実はそんな単純なものではない。この点が、仏教の、正法眼蔵の難しさの一因かもしれない。

 現実の世界を見るならば、仏は有であるし、趙州禅師も有である、犬も有であるし、仏性も有であるのは明白だ。

 道元禅師はさらにこの後「有」についての解説を展開される。

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