第294話 仏性その百三 業識を捨てよ

 「趙州いはく、「為他有業識在いたうごっしきざい(他に業識の在ること有るが為なり)」。この道旨は、「為他有」は「業識」なり。「業識有ごっしきう」、「為他有いたう」なりとも、狗子無くしむ仏性無ぶっしょうむなり。業識いまだ狗子をういせず、狗子いかでか仏性にあはん。たとひ双放双収そうほうそうしゅうすとも、なほこれ業識の始終なり」。

 趙州禅師の言うことには「為他有業識在」である。この言葉の意味は為他有(自分以外の他のものを設定して有るとしていること)は業識(頭の中で観念的に作り出す作用、意識)であるということである。業識有つまり頭の中で観念的に作り出す作用、意識によって有るとしても、為他有つまり自分以外の他のものを設定して有るとしたとしても、犬はあるがままであって無としか言いようのないものであり、仏性もあるがままであって無としか言いようのないものなのである。業識つまり頭の中で観念的に作り出す作用、意識では犬というものを理解することはできない。犬が仏性に出会うというようなことがどうしてあるだろうか。頭の中で観念的に犬や仏性を手放してみても、取り入れようとしても、やはりこれは頭の中で観念的に作り出す作用、意識に終始するに過ぎないものなのである。

 人間は何かを向こうに置いて「他」と認識してそれが存在するとする。これが為他有だということではないか。そして頭の中で観念的に作り出す作用、意識により有ると考える。これが業識有だと思っている。

 いくら頭の中で観念的にひねくり回しても犬というものが何かなどということはわからない。

 犬は犬としてありのままに存在するし、仏性は仏性としてありのままに、このようなものとしか言いようのないものとして存在する。犬も仏性も有るとか無いとかを超越したものとしてありのままなのだ。犬も仏性もこの世界、この宇宙そのものだとも言えるだろう。だから犬と仏性を別々なものとして捉えて「犬が仏性に出会う」などというようなことは無いのだ。

 ここでは頭の中で観念的に考えてはいけないということが説かれていると思っている。業識に囚われてはいけない。振り回されてはいけない。業識を捨てよう。

 どうするか。坐禅して宇宙と一体となって、真実・真理と一体となった時、全ては明々白々として現れてくるのだ。

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