第293話 仏性その百二 頭の中で追い求めるな

 「僧いはく、「一切衆生皆有仏性いっさいしゅじょうかいうぶっしょう狗子為甚麼無くしいじんもむ(一切衆生皆みな仏性有り、狗子甚麼なにとしてか無き)」。いはゆる宗旨そうしは、一切衆生無ならば、仏性も無なるべし、狗子も無なるべしといふ、その宗旨作麼生そもさん、となり。狗子仏性、なにとして無をまつことあらん」。

 僧が言うことには「一切衆生は皆仏性有りならば、どうして犬には仏性が無いのか」。この質問の大切な意味は一切衆生が無ならば、仏性も無であろうし、犬も無であろうということになるが、その大切な意味はどういうことかということである。犬も仏性もどうして無を待つ(無というものがあってそれを待つ)というようなことがあろうか。

 僧の質問は衆生=(仏性)有なのに何故犬=無なのかだが、道元禅師はこの質問を衆生=無ならば仏性=無、犬=無ということだと解説されている。

 仏性はこのようなものとしか言いようがなく、敢えて言えば無であるし、犬も同様に無となるだろう。

 人間の脳味噌で観念的に有だ無だといじくり回すことに意味はない。

 一切衆生も仏性も犬も恁麼、このようなものとしか言いようがないものなのだ。ありのままに存在する。それを有だとか、無だとか頭の中で観念的に考えると袋小路に迷いこむだけだ。無を頭の中で追い求める必要はない。「なにとして無をまつことあらん」だ。ありのままに存在するのだ。そのままに受け止めるればいい。ありのままなのだから、有るとか無いとかつべこべ言わないでよろしい。無を待つなどということをする必要はない。無を追い求める必要もない。

 ただ坐禅していればいいのだ。坐禅した身心ならば、この箇所もすっと得心できるはずだと思っている。

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